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【咲-Saki-SS:久咲】久「どうして、こんな結末になったのでしょうね」【真相編】
<あらすじ>
久「このお話の私視点よ」
(久「どうして、こんな結末になったのでしょうね」)
<登場人物>
宮永咲,竹井久,宮永照
<症状>
・異常行動(重度)
・狂気(重度)
・依存(重度)
・洗脳(重度)
<その他>
以下のリクエストに対する作品です。
・報われなくていい。ずっとそう思ってた。
貴女を見つめることが出来るだけで、
私はずっと幸せだと思ってた。
なのにどうして。
そっと貴女の唇をなぞってみる。
どうしてこんな結末になったのでしょうね。
――という久咲。
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宮永咲。
出会った頃の私にとって、
彼女は切り札でありながらも、
不安材料の一つでもあった。
他の皆が自ら麻雀部の門を叩いた中で、
一人だけ勧誘によって入った部員。
さして麻雀が好きだったわけでもなく、
勝つ事に対する気概も希薄な部員。
それが宮永咲という存在だった。
そんな咲には、全国大会を目指す目的がない。
確かに勝つ楽しみは覚えたかもしれない。
強い人と戦いたいと思ったかもしれない。
でもそれは、自分が楽しめる程度の相手に限る。
事実、靖子に凹まされたあの日。
それでも闘志に燃える和に対し、
咲は明らかに意気消沈していた。
だから私は、てっきり咲はそこまで大会に
固執していないと思っていた。
思い違いにも程があった。
それを気づかせてくれたのは、
合宿中に聞いた、咲の悲痛な叫び。
「私は…全国に行かなきゃダメなんです!」
「お姉ちゃんとやり直すために!!」
あの日以来、咲の印象は大きく変わった。
守るべき特別な存在に。
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幼くして家族を失う事。
それが子供にどれだけ深刻な影響を与えるかは、
私が身をもって経験している。
私が家庭崩壊を経験したのは中三の夏。
あれからもう三年が経つというのに、
依然心の傷は開いたままだ。
今でもしばしば夢に見る。
遠のいていく背中。泣きながら伸ばす手は空を切り。
座り込んで嗚咽する。
目を覚ますと、頬が涙で濡れている。
絶望感に全身が侵されている。
そして起き上がる気力もなく、
そのまま肩を震わせ続けるのだ。
家族を失うという事実はそれ程までに重い。
相手を愛していたならばなおの事。
そしてそれは、咲も同じなんだろう。
家族の事を話す時。咲は苦痛に胸を押さえていた。
心の痛みに耐えながら、必死に言葉を紡いでいた。
「…お姉ちゃんは、一言も
口を利いてはくれませんでした」
「でも、麻雀でなら。麻雀を通してなら、
話ができるかもしれないんです」
「私達が一番たくさん遊んだのは…
なんだかんだ言って、麻雀でしたから」
「もう、私には…これしか手がないんです」
唇を噛みしめ、自らの拳を握りしめ。
沈痛な面持ちで語った咲。
その目には、悲しい決意が浮かんでいた。
「そっか」
なんて哀れな子だろうと思った。
血を分けた家族と語り合う方法が、
唯一麻雀しかないだなんて。
同時に羨ましいとも思った。
状況はどうあれ、咲はまだ『終わってない』。
完全に望みを断ち切られた私とは違い、
咲にはまだ一縷の望みが残されている。
助けたいと思った。
目の前の少女が、絶望して膝をつくのは見たくなかった。
あんな絶望は自分だけでたくさんだ。
託したいと思った。
私には叶えられなかった夢。
そう、家族を取り戻すという夢を。
私は咲の手を取った。
両手でその手を包み込んで、
ぎゅっと固く握り込む。
「…ぶ、部長」
「私もね。両親が離婚したの。
そして、人生が滅茶苦茶になった」
「私は両親を愛していた。でも、一家は離散。
会いたくても、もうどこに居るかすらわからないわ。
完全に他人になっちゃったから」
私の言葉に、咲は目に涙を滲ませる。
震える体を抱き寄せると、
咲は小さく丸まって嗚咽した。
私のために泣いてくれた咲。
その姿を目の当たりにした瞬間、
私の中での優先順位が大きく変わる。
「貴女には、絶対にこの悲しみを味わわせない」
私にとっての一番が咲に変わった。
この子を絶対に悲しませない。
絶対に幸せにして見せる。
それが、私の人生の目標になった。
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咲が幸せになる手助けをする。
そう心に決めたはいいものの、その前途は多難だった。
正直今のままでは、
復縁は絶望的としか思えなかった。
『麻雀を通して語り合う事で、
お姉さんと仲直りする』
どうしても、この作戦に
希望を見出す事ができなかったのだ。
聞けば、わざわざ東京まで一人で会いに行ったのに、
お姉さんは一言も口を利いてくれなかったと言う。
二人の確執は相当なものに間違いない。
なのに麻雀で語り合う?
お小遣いを守るために、勝負を捨てて
プラマイゼロにしていた麻雀で?
(それって、お姉さんは楽しめていたの?)
勝つ気のない相手との勝負が面白いとは思えない。
しかも須賀君によれば、咲は麻雀がキライだと
繰り返し言っていたはず。
その気持ちは、態度は。
お姉さんに伝わっていたと考えるべきだろう。
(…いやこれ、ノーチャンスでしょ。
何か別の手を考えないと)
咲が縋りたくなる気持ちはわかる。それでも、
その望みは断ち切られているとしか思えなかった。
希望の兆しは見えない。なのに、
不安材料だけは簡単に増えていく。
それは、私達が全国出場を決めた後の、
お姉さんのインタビュー。
出場選手にチャンピオンと同じ名字を見つけた記者が、
親族の可能性を突き付けたのだ。
たまたまテレビをつけていた私は、
思わず身を乗り出した。
まさかこんな形で彼女の思いを知る機会が
与えられるとは思わなかった。
固唾を飲みながら次の発言を待つ。
『……』
一呼吸の沈黙の後、彼女は平然と口にした。
全国ネットのインタビューで。
『私には、妹は居ません』
それは明確な拒絶。存在すら否定する、究極の拒絶だった。
「……っ!!」
私は握り締めた拳をテーブルに叩きつけた。
激しい打撃音はテーブルを伝わり、
遠くで洗い物をしていた咲の耳にまで届く。
「…部長、どうしたんですか!?」
幸い、咲は放送を聞いていなかったようだった。
咲が駆け寄ってくる前に、
慌ててテレビのチャンネルを変える。
「……ああ、ああ。なんでもないの。
いきなり目の前に蚊が飛びこんできたから、
反射的にテーブルを蹴っちゃっただけ」
「あーもう、本当にビックリしたわ」
「あはは、そういう事ってありますよね」
本当に肝が冷えた。もし、咲があの発言を耳にしていたら。
その時点で、全ては崩壊していたかもしれない。
(これ、もう一刻の猶予もないわ)
いつどこで、さっきのような発言が
繰り出されるかわからない。
テレビだけじゃない。雑誌でも、
似たような取材があってもおかしくない。
そうなればいつかは咲の目に留まる。
それでおしまい。咲は立ち上がる力を失うだろう。
「…何とかしないと」
少しでも状況を打開しておく必要がある。
その日のうちに、私は東京行きの電車に乗り込んだ。
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翌日。私は単身、白糸台高校の
正門前に立っていた。
警備員の前でこそ、来訪者として
大人しく通り抜けたものの。
その後はずかずかと部室に踏み入っていく。
殴り込みだ。
「失礼するわ」
突然姿を現した他校の生徒に、
部員達がざわめき始める。
構う事なく、敵意丸出しの視線を巡らせると、
喧騒はさらに広がっていった。
「静かに!」
一瞬で場が凍りついた。声を発した、
背の高い藍色髪の女生徒が
酷く冷たい声で話しかけてくる。
「…誰だお前は。ここは白糸台高校の
麻雀部員以外立ち入り禁止だぞ」
「わかってるわよ。用が済めばすぐに立ち去るわ。
私は、冷酷無比で血も涙もない
チャンピオンに文句を言いに来ただけ」
「…私の事?」
一人の少女が立ち上がる。
その頭部には、咲と同じ特徴的な癖毛があった。
「他に誰がいるのよ。血を分けた実の姉妹すら
全国ネットで否定する宮永さん」
「……」
「そこまでだ!部員は通常通り部活を続けてくれ!
…なお、今この女がした発言については
部外で吹聴しないように」
鋭く射抜くような目つきで私を睨みつけながらも、
弘世さんが冷静に指示を下す。
部内はかすかな戸惑いを残しながらも、
偽りの平穏を取り戻した。
「お前はこっちに来い。別室で対応しよう。
…照も、いいか?」
「うん」
異物と化した私達は、黙って大部屋を後にする。
通された部屋は個室だった。
しかも、どうやら宮永さん専用の。
さすが天下の白糸台高校。
上位成績者には個人ルームが割り当てられるらしい。
ともあれ、最初の作戦は成功した。
殴り込みと言っても、もちろん言葉通りの意味ではない。
私が欲するのはあくまで情報。
咲と彼女がぶつかってしまう前に、
言葉の真意を知っておく必要があった。
(もちろん、言葉通りの意味だったなら、
絶対に許さないけどね)
部屋に入っても一度として
視線を宮永さんから外さない私。
それを見て弘世さんはため息をつきつつも、
ぶっきらぼうに問い掛けてくる。
「…で、お前は何者なんだ」
「清澄高校麻雀部の部長、竹井久よ。
咲…宮永咲のチームメイト」
「不躾な態度だったのは認めるわ。
でも、それだけの言動を彼女はした」
「あの言葉の真意、聞かせてもらうわよ。
そのままの意味だったら覚悟して頂戴」
「……だそうだ。まあ、確かにあの発言は
私もどうかと思ったが」
弘世さんが肩をすくめながら宮永さんを見る。
目を血走らせる私に対し、
宮永さんの反応はどこまでも冷静だった。
彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
「…あの時は、ああ言うしかなかった」
「もし私が認めたら、咲にメディアが殺到する。
生い立ち、経歴、人間関係。
咲の全てにメディアのメスが入る」
「それが咲にとっていい結果を生むとは思えない」
「…ふーん」
表面上は敵対の姿勢を保ちつつも、私は内心安堵した。
少なくとも、あの発言に敵意はなかった。
むしろ、咲に対する気遣いに溢れていると言える。
「その可能性は否定しないわ。
でも、あの発言を咲が聞いたら。
それこそ取り返しのつかない事に
なっていたと思わないの?」
少しだけ語気を弱めつつも、私はさらに糾弾する。
悪意がなかったとはいえ、咲が聞いていたら
破滅だった事に変わりはないのだ。
二度目が起きないように釘は刺しておきたい。
でも、宮永さんから返ってきた反応は、
意表を突くものだった。
「聞いてなかったでしょ?」
それは答えを知っているかのような、
断言する口ぶりだった。
私は思わず口をつぐむ。
確かに聞いてはいなかった。でもそれはただの偶然だ。
なのに、どうして断言できる?
わからない。わからないけれど…
強烈に嫌な予感がする。
背筋を冷たい汗が通り抜けた。
「…どうしてわかるの」
「私だって、咲を放置していたわけじゃない。
状況はお父さんから定期的に教えてもらってる」
「咲はまだ、『あの事件』から立ち直っていない。
トラウマを乗り越えられていない」
「それなら、私の声は咲に届かない。
拒絶しているのは咲の方」
「貴女は、そこまで踏み込めた上で……
私に対話を求めているの?」
「……っ」
返す言葉がなかった。
宮永さんの口から語られた事実。
それは私にとって初耳で。
何か事件があった事も、まして事件の内容もなんて、
咲は話してくれなかった。
「……話は終わりみたいだね」
沈黙を貫く私を前に、宮永さんが立ちあがる。
彼女は私を見下ろしながら、
最後まで淡々とした口調で言葉を切った。
「咲が私に会いたがってるのなら、
それとなく伝えてほしい」
「今の貴女が私と対話を求めても無駄だと」
あまりにも無慈悲な宣告だった。
それでも、それを覆すに足る情報を持たない私は、
ただ受け入れるしかない。
「……邪魔したわね」
血が滲むほどに強く唇を噛みしめながら、
私もゆっくりと席を立つ。
そのままドアを開いて立ち去ろうとしたら、
背後から一言声を掛けられた。
「私の声は、トラウマを抱えた咲には届かない」
「どうか、咲を救ってほしい」
それまでの淡々とした口調からは一転。
その声には、抑揚が混じっていた。
「……っ!?」
私は思わず振り返る。彼女は背を向けていた。
だからその表情は見えない。
それでも、その震える声が。
彼女の本心を如実に物語っている気がした。
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思えばおかしな話だった。
本来なら、何をおいても一番に聞かなければいけない点。
それを、私は意図的に遠ざけていた。
そう。咲と宮永さんが仲違いした原因を。
咲が話そうとしなかったのは事実。
だから無理に引っ張り出して、
傷口を広げるような真似は控えたのも事実。
でも今にして思えば。
私は感じ取っていたのではないか。
触れる事を躊躇う程の深い闇。
それを咲の態度から感じ取って、
怯えて後回しにしてしまっただけではないのか。
『どうか、咲を救ってほしい』
言葉を聞いた限り、宮永さんは咲を案じている。
声が届かないとも言っていた。
つまり宮永さんも対話を試みたという事だ。
咲から聞いていた話とは随分と乖離がある。
振り返ってみれば、
他にも確かにおかしな点はあった。
咲は姉関係の情報のほとんどを
シャットアウトしていたのだ。
雑誌などの情報は追っていたものの、
いざ姉が映像に映る段階になると、
頑なにそれを避けていた。
咲が、何らかのトラウマを
抱いているのは間違いないだろう。
(それを突き止めて、解消しなければ…
咲は幸せを掴めない)
知る必要がある。咲の過去に何があったのかを。
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咲が居ない時を見計らって、
宮永家の門戸を叩いた。
「…君は?」
「竹井久と言います。清澄高校麻雀部の部長を務めてます。
今日は、咲についてお話を伺いたくて参りました」
「…咲を苦しめる過去の事件について」
「…!?い、いきなり何を」
「宮永照さんにも頼まれています。
私に咲を救ってほしいと」
「私は知る必要があるんです。咲の過去を。
咲を、トラウマから救うために」
私を出迎えた男性…
おそらくは咲のお父さんだろう。
界さんは唐突な訪問に戸惑いながらも、
門前払いする事はなく。
足で玄関のドアを開けたまま、
思案顔で黙り込んだ。
「……」
腕を組み、目を閉じて考え込む事数十秒。
やがて、界さんは口を開く。
「…わかった。照がそう言ったのなら。
どの道、俺達じゃ手詰まりだったんだから」
界さんは私を部屋に招き入れる。
もっとも部屋にあげられた後も、
界さんはなかなか
話を切り出そうとはしなかった。
「……」
そこまで重たい話なのか。沈黙を受けて、
それなりの覚悟をしてきたはずの私の心も
少しずつ縮こまっていく。
私の震えを肌で感じたのだろう。
界さんは大きく大きくかぶりを振ると。
ついに決心したように、
ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「まず初めに言っておく事がある」
「…咲は、心の病気なんだ」
そして界さんは語り出す。
咲の身に起こった事件。
咲と睦まじかった、車椅子の少女の話を。
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そして私は全てを知った。
知った今なら頷ける。宮永さんが、
咲から距離を置いていた理由も。
咲が彼女を訪ねた時に、
一言も口を利いてもらえなかったと
『錯覚した』理由も。
問題は全て咲の内側にあった。
罪の意識から、咲は宮永さんの言葉を遮断していた。
『許してもらえるはずがない』
そう自ら決めつける事で。
私にその壁が壊せるだろうか。
自信はない。でも、やるしかない。
家族の言葉は咲に届かなかった。
でも、いっそ部外者の私ならどうか。
事件に無関係の私だからこそ、
伝えられる言葉があるのではないか。
「ねえ咲。話があるの」
私は、咲を部屋に呼び出した。
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「なんですか?」
「これからの話をしましょう」
「これから私達は、全国大会に出場する。
そして、貴女はお姉さんと対峙する」
「はい」
「でも、わざわざそんな事
しなくてもいいって言ったら……
どうする?」
「…はい?」
「お姉さんと連絡が取れたの。
貴女と話してくれるって」
「貴女が望むなら、今すぐにでも会話できるわ。どうする?」
「…な、何言ってるんですか…
お姉ちゃんは、前に、一言も、口を」
「違う。お姉さんは貴女に話し掛けていた。
それが貴女に聞こえてなかっただけなのよ」
「嘘!?そんなわけない!だって!」
「咲!気づいて!貴女の行動は矛盾してるの!」
「お姉さんと話すためって言いながら、
貴女はお姉さんを遠ざけてる!」
「口を利いていないのは貴女!
対話を閉ざしているのは
貴女の罪の意識なのよ!!」
「…!?」
「逃げちゃ駄目!向き合って!
トラウマを乗り越えるのよ!!!」
「……」
「……」
「……」
「……咲?」
「……無理だよ!」
「咲!」
「認めちゃったら終わりだもん!
向き合ったら終わりだもん!
許してもらえるはずないんだから!」
「咲!!」
「…っ、あはは…そっかぁ…!
最初から無理だったんだ…!
許してもらえるはずないもん!
私はそれだけの事をしちゃったんだから!」
「もう私は終わってたんだ!
あの子はもう戻ってこない!!
だって、私が、あの子を、殺」
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「そんな事どうでもいいのよ!!!」
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辺りがしんと静まり返る。
私のあまりの剣幕に、
咲は毒気を抜かれたようだった。
「ど…どうでも、いいって」
「…咲。誤解を恐れずに言うわ。
私はその子の話、ちっとも興味がないの」
「だって、もう退場したんでしょ?
だったら考えるだけ無駄じゃない」
「…え」
「その子はもう貴女を捨てたの。
二度と戻ってこないのよ」
そう。どれだけ手を伸ばしても。
どれだけ泣いて縋っても。
一度いなくなってしまった人は、
二度と戻ってきてくれない。
私はそれを、経験則でわかっている。
「戻ってこない子に縛られてどうするのよ。
その子しか居ないってならまだしも、
貴女にはまだ家族が残されてるでしょう?」
そう、私とは違って。
「で、貴女以外の人は、
貴女を責めたりしていないのよ?」
「…嘘、そんな、嘘」
「いい加減気づきなさいよ!!」
「……っ」
無念の思いに、怒りに支配されていた。
私は咲の体を掴みながら叫ぶ。
「誰も貴女を責めたりなんかしてない!
むしろ貴女の事を心配してる!
なのに、貴女はそれを拒絶してるの!
馬鹿らしいと思わない!?」
まったく理解できなかった。
もう居ない人間に囚われて、
今いる人の縁まで断ち切るなんて。
「しかも、それも今のうちだけ!
貴女がずっとその調子なら、
いずれ皆去って行くわ!」
「引きこもってる暇なんかないの!
こんだけ恵まれた状況で、
どんだけ泣き事言えば気が済むのよ!」
知らず知らずのうちに、涙が頬をつたっていた。
やり場のない悲しみが、
後から後から噴き出してくる。
だって咲の問題は、咲の気持ち一つで解決できるのに。
私なんか、あがく事すら許されなかったのに。
私のそれと比べれば…
「貴女は…貴女は…!」
「まだやり直せるじゃない!!!」
一際大きな怒号が、部屋全体に響き渡る。
「……」
長い間、時が止まった。
そのまま、永遠に動き出さないかとすら思えた。
「……」
でも、やがて。
咲の口から言葉が零れる。
「…本当。ですか」
「本当に。私は。やり直せますか」
「…馬鹿。そもそも貴女は、
そのために全国を目指したんでしょう」
「やり直せる…貴女は……!」
咲の目から涙が零れる。
そのまま崩れ落ちそうになる咲を支えると、
強く、強く抱き寄せた。
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結論を先に言ってしまえば、
咲は見事にトラウマを乗り切った。
今もまだ、時々思い出してふさぎ込む事はある。
それでも一人で抱え込む事はなくなって、
素直に周りを頼れるようになった。
そして、ついにその日が来る。
二人の姉妹が、その顔を合わせる時が。
「…咲。私の、声は聞こえる?」
「お姉ちゃん…」
戸惑うように語り掛ける宮永さん。
きっと過去にも同じように話しかけ、
その声は届かなかったのだろう。
でも、今の咲は違う。
「聞こえる…聞こえるよ……!!」
咲はその声に反応した。
妹は目に涙を浮かべながら姉の胸にすり寄って。
姉はそんな妹を優しく抱擁した。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん…!」
「咲…!」
固く抱き締めあう二人。
私はそんな二人を遠巻きに眺めながら。
一人涙を流していた。
――おめでとう…咲
貴女は、家族を取り戻す事ができた
……私とは違って。
私には無理だった。
そもそも選択権なんてなかった。
(でも、それでよかったのよ)
そんな私だからこそ、
咲に言葉を届ける事ができた。
だから私は、これでいい。
今こうして、幸せになれた咲を。
遠くから眺めるだけでいい。
それだけで、私は幸せになれるから。
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でも、私の幸せはそこまでだった。
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全国大会が終わるなり、
咲は清澄から姿を消したから。
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はにかんだ笑みを浮かべながら、
咲は部室を去って行った。
『せっかく仲直りできたんだし、
今まで失った時間を
取り戻したいって言われちゃって』
『夏休み中は、東京でお姉ちゃん達と
過ごす事にしました!』
なんて事を言いながら、
私の前から姿を消した。
今頃は、家族水入らずで
楽しい時を過ごしているのだろう。
つまり、私はあっさり捨てられたのだ。
私は宮永家の家族にカウントされなかった。
当然だ。所詮、私は血も繋がっていない
赤の他人なのだから。
でも、それ以上に悲しかったのは。
咲が、この期に及んで、
私よりも家族を優先した事。
咲が取り戻した家族の縁。
それは一年、二年なんて単位で
途切れる事はなく。
きっと一生続いていくのだろう。
それに比べて、私は程なく麻雀部を引退する。
一年も待たず清澄高校を卒業する。
私が咲と過ごせる期間は、
家族のそれとは比較にならない程に短い。
そんな両者を天秤にかけて。
それでも、咲は私を捨てて家族を選んだのだ。
悲しかった。ただ、ただ。
悲しかった。身が千切れる程に。
「……」
私は一人帰路に就く。いつもは繋がれていた右手。
今はその手を握る者は居ない。
「…ただいま」
寒々しい部屋の玄関を開ける。
いつもなら横から聞こえる
『お帰りなさい』の声。
今日は、空しく静寂が挨拶を返した。
心に、ぽっかり大きな穴が空いた気がした。
思わず自重の笑みが零れる。
「あはは。結局、そんなもんなのよ。
だって私、家族じゃないもの」
「ははっ。別にいいじゃない…捨てられたって。
見返りなんか求めてなかったでしょう?」
「咲が幸せならそれでいいって。
そう考えてたはずじゃない」
「あは。あはは」
「あははははははっ……」
「……っ」
「そんなわけ……っないじゃない……っ!」
報われなくていいなんて嘘。
見てるだけで幸せなんて嘘。
そんなので満たされるはずがない。
私を見てほしかった。
家族に加えてほしかった。
――私を…愛してほしかった!
自分が壊れていくのを感じる。
心が黒く塗り潰されていくのを感じる。
悲しみと、後悔と、嫉妬と、殺意。
全ての感情が私を作り変えていく。
「……」
「…どこで間違えたのかしら」
「…どうしたら、私は幸せになれたのかしら」
「どうしたら、私は、宮永さんより……っ」
危ういところで我に返った。
ああ、駄目だ。このままじゃ。
私は。咲の幸せを壊してしまう。
あれほど願った咲の幸せを。
私自ら壊してしまう。
私は、咲の側に居てはいけない。
震える手で机から便箋を取り出した。
別れの言葉を記そうと。
私は文字を綴り出す。
文字はどんどん吐き出され、
いつしかそれは呪詛と化した。
「……っ!」
私は便箋を破り捨てる。
気持ちが溢れて仕方なかった。
綺麗な言葉を並べ立てて、立つ鳥跡を濁さず消えたいのに。
気づけば逆の言葉ばかり書き連ねている。
『捨てないで』『一人にしないで』
『私から逃げないで』
滲む視界を無理矢理拭う。
無理だ。私は想いを綴る事を諦めた。
だから、ただ一言。
本当に、事実だけを淡々と記す事にした。
『さようなら』
言葉に乗せ切れなかった重過ぎる想い。
それが咲に伝わる事はないだろう。
それが、例えようもなく悲しかった。
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別れを告げる決意をした後も。
未練がましい私は、しばらくの間
みっともなく想いを引きずり続けた。
結局手紙を置けたのは。
秋風が冷え切り、自由登校が始まった頃だった。
「…何しとるんじゃ?」
人知れず手紙を置いて去ろうと思っていたのに、
折悪しくまこと鉢合わせてしまった。
内心気後れしながらも、淡々と事実を口にする。
「まこ。私は今日を持って部活を卒業するわ。
ううん。もう卒業まで学校にも来ない」
「…咲の事か」
「…気づいてたの?」
「伊達に長い間、お前さんと二人で
過ごしとったわけじゃないけぇの」
驚いた事に、まこはぴたりと言い当てた。
苦笑しながらもその目は優しく、
私を案じてくれている事がわかる。
「だったらわかるでしょ。
私は咲のそばに居てはいけない」
「自覚してるの。私は今おかしい。
このままじゃ、何をするかわからない」
「…そうか」
「じゃが、お前さんは一つ見落としとるぞ。
お前さんが居らんくなったら、
咲は間違いなく後を追うじゃろう」
「…ありえないわ。咲は私を捨てたのよ?」
「…お前さんが勝手にそう思っとるだけじゃ」
「だったら、その時はまこが咲を止めて頂戴」
「お互いに想いあっとるのに
なして止めにゃいかんのじゃ」
「言ったでしょ。何をするかわからないって」
それを証明するかのように、
私はまこを正面から見据える。
私の目から狂気を感じ取ったのだろう。
優しかったまこの目が、
恐怖と戸惑いに揺らぎ始める。
「……何が『想いあってる』だか」
「…夏休みのあの日。私が一番求めていた時に、
咲は家族を優先したじゃない」
「私を追いかけてきたら何?どうせ、
『お姉ちゃん』が来たら
そっちに流れるんでしょ?」
「……」
「…宣言するわ。もし咲が私を追いかけてきたら。
私は咲を壊す。私しか見えないように作り変える」
「…だから。私のところに咲を連れてこないで」
「……」
心の奥から溢れだす狂気。
それを隠す事なく見せつける。
自分ではもう止められないから。
壊れていく自分を止められないから。
なんとかまこに止めてほしかった。
でも。まこが出した結論は。
「断る」
「どうして!」
「優先順位の問題じゃ。そりゃぁ、
咲は大切な後輩に違いない」
「でもな…わしにとって、一番大切なのは…」
「久。あんたなんじゃ」
「咲が壊れて、あんたが幸せになれるなら…
わしは見て見ぬふりをする」
「止めたいなら、自分で止めんしゃい」
そう言って、まこは寂しそうに笑った。
「…っ、杞憂よ。どうせ、咲は私を追ってこない。
私なんかより、もっと大切な家族がいるのだから」
言葉で可能性を切り捨てる。
でも心は疑念に囚われていく。
もしかして、咲は追いかけてくるのだろうか。
だとしたら、私は咲を諦めなくてもいいのだろうか。
壊してしまってもいいんだろうか。
幸せを求めてもいいんだろうか。
決意はいびつに歪み始める。
幸せを願う別離の手紙は、ほの暗い罠に姿を変える。
わかっていても、
私はもう止める事はしなかった。
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手紙を残し、学校から去る事数日。
誰にも会わない日々が続いた。
呼び鈴に飛び起きて駆けつけるも、
宅配か勧誘の業者ばかり。
咲の姿はどこにもなかった。
(…結局、そんなもんなのよ)
失望の念がこみあげる。
『所詮、お前はその程度の存在だったのだ』と
突きつけられた気分だった。
心に空いた穴が広がっていく。
(…でも。単に気づいてないだけかも)
すぐさま都合よく思い直す。
咲に捨てられた可能性を受け入れるには、
私の心は傷つき過ぎていた。
でも。でも。でも。
ぐるぐる、ぐるぐる。
答えの出ない憶測が頭を駆け巡る。
ただ一つ確かな事。それは、
結局咲は来ていないという事だけ。
その事実が大きく圧し掛かる。
私の心を狂わせていく。
「……っ!!」
頭をガリガリと掻き毟る。力任せにガリガリと。
指に血を滲ませながら、私は一人自分を諭す。
「来なかった時の事を考えるのはやめましょう!
その時はどうせ終わりなんだから!」
咲が来た時の事だけ考える事にした。
なら、実際に来たらどうしようか。
決まってる。もう二度と離さない。
でも、具体的にはどうやって?
(そうだ、自分を人質にしよう)
咲の未来と、私の未来を天秤に掛けさせる。
咲が本当に私を必要としてくれているなら、
逃げずに留まってくれるはず。
その後はじっくりと私で染めてしまえばいい。
もし逃げられたその時は…
うん。諦めてこの世を去ろう。
「…そうと決まれば、さっさと準備しないとね」
咲が来るまでの時間。その全てを、
咲を閉じ込めるためだけに費やした。
首輪も調達した。それに繋がるチェーンも買った。
如何わしい睡眠薬も手に入れた。
監禁の準備は着々と進んでいく。
「…あ、これ駄目だわ。
紅茶に入れるとすっごいマズい」
「コーヒーならどうかな…うーん。
まぁこれならごまかせるかしら?」
準備をするという行為が、さらに私を狂わせていく。
自分の中に微かに残っていた良心が
消えていくのを感じた。
――ああ、咲 早く壊されに来て
咲を壊せる日がやって来るのを、
心待ちにするようになった。
そして……
「…ぶ、部長…いらっしゃいますか……?」
ついに、咲はやってきた。
満を持して、私に壊されるために。
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睡眠薬で眠らされて、
知らぬ間に首輪をはめられて。
それでも、咲は逃げ出そうとはしなかった。
「そ、その…保留にさせてください」
私と未来を天秤に掛けて。
結論を出す事を躊躇ってくれた。
だからと言って、私はそれで
満足するつもりはなかった。
(…即答できなきゃ意味がないのよね)
咲は決断を保留した。
つまりそれは、どっちに転んでもおかしくない事を意味する。
もし今、ここにお姉さんがやってきたとしたら。
咲は簡単に私を捨てるのだろう。
(…予定通り行きましょう)
咲を壊す事にした。
まずは外部からの干渉を遮断する必要がある。
私は界さんに一報入れる事にした。
「あ…界さんですか。実は、咲がうちに来てまして」
「はい…どうも、その…と、トラウマが再発したみたいで」
「はい。しばらくはうちで引き取ります」
「ええ、はい…ちょっと普通じゃない感じでして…
多分長期欠席になっちゃうかもしれません」
「そうですね。家族旅行という事に
したらどうでしょう」
「あ。照さんには伝えないでください。
せっかく仲直りしたのに、
あまり心配させたくないですから」
「はい。大丈夫です。私が責任もって立ち直らせます。
ほら、咲も」
「…お父さん、ごめんなさい。
しばらく部長のお世話になります」
復縁のために砕身していた事が功を奏した。
界さんはまるで疑う事なく、咲の未来を私にくれた。
「よし。これで、家族の方は問題ないわね」
「で、でも…和ちゃん辺りは気づくかも…」
一仕事終えてほっとした私に、咲が口を挟んできた。
監禁されているくせに、咲は
私の身を案じてくれているようだった。
「うーん…そうねぇ」
私はしばらく思案する。少し悩んだものの、
麻雀部員には連絡を入れない事にした。
「うん。和が気づいたなら、それはそれでいいわ」
和が予想通りの動きをするとしたら。
きっと、二週間後くらいに大きな山場が来る。
それはそれで都合がいい。
それまでに咲を壊しておく必要があるけれど。
(…そのためにも、早く調教を始めないとね)
私は咲に向き直る。咲は私の目をちらりと覗き見ると、
怯えたように視線を逸らした。
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四六時中私で埋め尽くした。
動揺させ、考えさせ、消耗させ。
そして、最後に安らぎを与えた。
「…好きよ、咲。誰よりも」
「愛してる。貴女だけ居れば、
他には誰もいらない」
「だから、貴女も。私以外全部捨てて?」
その体を抱き、包み込み。ひたすら愛を囁いた。
寝ても覚めても、私だけを詰め込んだ。
私の以外の全てのものが。
溢れて、はみ出て、捨てられるように。
「…部長」
徐々に咲の表情が精彩を欠いていく。
思考が澱み、考える事を放棄していく。
抗う事なく、私に抱かれる事を求めるようになる。
「…部長。もう、私…疲れてきちゃいました」
「そっか。じゃぁ、もう寝ましょ?」
「……ぎゅってしてください」
「ふふ、喜んで」
「……いつもの、言ってください」
「…愛してるわ、咲。誰よりも」
虚ろな目をした咲が笑顔をかたどる。
咲は写真を床に置いて、両腕で私を抱き締めた。
私はその写真を押し潰す。
咲はそれに気付かなかった。
「部長、部長、部長、ぶちょう」
少しずつ、少しずつ。
咲の中から、『お姉ちゃん』が消えていく。
咲の中が、私だけで染まっていく。
咲の中で、『お姉ちゃん』が死んでいく。
それが、狂おしいほどに嬉しかった。
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そして。ついに咲は私を選ぶ。
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「…わかりました。今だけは。
少なくともこの家にいる間は」
「私は、部長の事だけを考えます」
監禁生活を続けて一週間。咲は私の手に堕ちた。
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保留とはいえ、咲はついに宮永さんを捨てた。
一度そうなってしまえば話は早い。
もう咲の崩壊は止まらなかった。
「咲…愛してる。誰よりも、貴女の事を」
「わ、私も…好きです……」
より一層激しく咲を愛した。咲も私の愛に応えた。
心はもちろん、体でも繋がった。
幾度となく咲の体をついばんた。
私の物になった証を刻みこんだ。
「もう…部長、つけ過ぎです……」
咲の体が、赤い斑点で埋め尽くされていく。
咲は恥じらいながらも、どこか
幸せそうにうっとりと微笑んだ。
迷いから解放された咲は、
私の愛情を盲目的に受け入れて。
私が何もしなくても、勝手に
どんどん壊れてくれる。
「見てください。部長」
ある日の事。ニコニコと満面の笑みを浮かべながら、
私の目の前に握った拳を突き出してきた。
「どうしたの?」
「…これ」
私が拳に視線を落とすと、咲は握った手を開く。
開かれた掌から、細切れに千切られた紙片が
ひらり、ひらりと落ちていく。
お姉さんのなれの果てだった。
「保留は保留だけど。でも、ここにいる間は
部長のものになるって決めたから」
「だから、これが。私の決意の表れです」
「ありがと、咲。愛してるわ」
「…わ、私もです…部長の事が」
「だいすき」
初めて告げた時はついに成し得なかった踏絵行為。
それを、咲はいとも簡単にやってのけた。
ただ私を喜ばせたいというだけの理由で。
「じゃ、これはもういらないわよね」
私は破られた写真をゴミ箱に捨てる。
ゴミとして消えるお姉さんを見ても、
咲は笑顔のままだった。
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監禁は期待以上の効果を生んだ。
既に目的は成ったかと思われた。
それでも私は念を押す。
咲の中で、私と宮永さんの優先順位が
完全に入れ替わったのはわかった。
でも、それだけじゃ足りない。
お姉さんを憎んでもらいたい。
万に一つでも、その順位が
再び入れ替わる事のないように。
今度は、宮永さんを全面に押し出す事にした。
触れたくない時に、必要以上に。
「んっ…ふっ…あっ」
「ふふっ…気持ちいい?」
「うんっ…すごい、気持ちいいっ…
部長っ…すきっ…だいすきっ」
「……」
「…それ、お姉さんと比べても?」
「……っ!?もう!
部長の方が好きに決まってるよっ!」
普段の会話中はもちろん、
愛を囁きあう最中(さなか)にも。
気分を削ぐ絶妙のタイミングで
お姉さんの存在をちらつかせた。
「部長はお姉ちゃんの事気にし過ぎだよ!
もうお姉ちゃんの事は忘れてよ!」
咲は露骨に機嫌を損ねた。
宮永さんが話題に上る事を嫌がるようになった。
それでも私は繰り返す。
咲の神経を逆撫でするために。
そして、ついに…咲の堪忍袋の緒が切れる。
「あーもう!わかったよ!ほら、見て!」
もう何十枚目だろうか。
いい加減見飽きた二人のツーショット写真。
咲はそれをテーブルのど真ん中に叩きつけると、
大股で台所に消えていく。
戻ってきた時には、その手に包丁を携えていた。
「…見てて」
そして、咲は、包丁を。
逆手に、握って、力任せに。
写真に、向けて、振り下ろす。
『ドスッ……!』
鈍い音を立てて、包丁がテーブルに鋭く突き刺さる。
「ほらっ。これでわかったでしょ?」
その切っ先は、見事に
お姉さんを引き裂いていた。
「…咲」
「わかったら、もうお姉ちゃんと比べるのは止めて?」
「私は部長の事が好きなの。
部長の事だけ考えてたいんだよ」
「いちいちお姉ちゃんに邪魔されるのは…
うんざりだよっ!」
咲は肩で荒い息を吐きながら。
もう一度お姉さんを貫いた。
その姿を前にして、私の胸は一杯になる。
胸の鼓動が早くなり、思わず咲を抱き締めたくなる。
それでも私は努めて冷静を装いながら、
淡々とした声で咲に問い掛けた。
「…それ、本物のお姉ちゃんを前にしても、
同じ事が言えるかしら?」
「言えるよ。お姉ちゃんが部長を苦しめるなら」
「私は、迷わずお姉ちゃんを殺せるんだから」
完璧な回答だった。
今度こそ私は咲を抱き寄せて、その頭を撫でてやる。
咲は褒められた幼子みたいに、だらしない顔で微笑んだ。
(終わったわ。もう、何も心配いらない)
準備は完全に整った。
後は、写真が実物に変わるのを待つだけだ。
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そして、決戦の日が訪れる。
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和を泳がせておいた甲斐があった。
予想通り、宮永さんは異常事態を嗅ぎつけてきた。
「…竹井さん。咲はここに居るんでしょう?」
「貴女は、前の時も私達のために頑張ってくれた。
きっと、今回もそんな感じなんだよね」
「話し合おう。今度は、私も力になれる」
宮永さんは私を責めたりしなかった。
むしろ私を気遣ってすらいた。
(本当に馬鹿な人。私が何を考えているのかも知らないで)
「…はぁ…仕方ないわね……」
私はさも苦悩したかのように溜息をつく。
憔悴しきったふりをして、
のろのろと玄関の扉を開ける。
あえて、咲から『お姉ちゃん』がしっかり見える様に。
「お…ねぇ…ちゃん…!」
予想外の人物に、咲は目を見開いた。
でも、その横で震える私を見て、
その目が爛々と燃え盛る。
間違いない。咲は、宮永さんを敵と認識した。
それでいい。さあ、リハーサル通りにして?
「…大丈夫だよ、部長」
私を安心させるように微笑むと、
咲は台所に足を向ける。かつてのリハーサルと同じように。
そして、咲は包丁を握り締めて、
標的に向かって走り出した。
「見てて!部長!!」
「殺せるよ!私!お姉ちゃんだって殺せる!!」
その動きに一切の躊躇はなかった。
終わりだ。これで咲が宮永さんを刺して、
『お姉ちゃん』はこの世から消える。
そして、咲は一人ぼっちになって。
私以外誰も居なくなる。
その時初めて、咲は本当に私だけのものになる。
(あはは、なんて簡単なの?
最初からこうしておけばよかった)
あまりに上手く行き過ぎて、
私は思わず笑いそうになっ
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――……っ!
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その時、私の横で空気が震えた
声だった それは、
隣にいた私にしか聞こえない程に小さな声
声はか細く震えていた
――咲…っ どうして……っ
絶望に染まり切った声
宮永さんのものだった
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刹那、私の脳裏に、ある場面が蘇る
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『私は…全国に行かなきゃダメなんです!』
『お姉ちゃんとやり直すために!!』
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『この子を絶対に悲しませない』
『絶対に幸せにして見せる』
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『託したい』
『私には叶えられなかった夢』
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『そう……家族を取り戻すという夢を』
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「……っ!!」
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不意に、脳裏によぎった思い。
なぜ今この際(きわ)になって、
それが浮かんだのかはわからない。
わからなかったけど。
目の前に広がる光景。
それが、その思いと正反対である事は一目でわかった。
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反射的に、私は宮永さんを覆うように立ちふさがってしまった
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咲は驚いて立ち止まろうとする
でもその勢いは止まる事なく
包丁は私のお腹に吸い込まれる
そして
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「あぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁああぁっ!!!!!」
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咲の絶叫が響き渡った
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「…以上がこの事件の顛末よ」
「成程。貴女は頭がおかしい」
「自覚してるわよ」
「……」
「……」
「…これが、貴女の求めた結末だったの?」
「…そんなわけないでしょう」
「……」
「このまま終われば、咲は壊れたまま人生を終える。
誰が聞いても文句なしのバッドエンドで」
「包み隠さず正直に言えば、
今すぐ貴女を殺してやりたい」
「…そりゃそうでしょうね」
「咲に刺された箇所を、さらに深く抉ってやりたい。
二度と蘇生できない程に、
深く、深く、深く、深く」
「……」
「……それでも、それは許されない」
「…別に、そのくらい受け入れるわよ?」
「殺せない。咲を救えるのは貴女しかいないから。
狂ってしまった咲に言葉を伝えられるのは、
多分、もう貴女だけ」
「貴女を刺した時点で、あの子は完全に壊れた。
警察に連れて行かれた時も、
ほとんど会話が成立しなかった」
「病院にも毎日行ってる。
でも、咲の目に私は映らない。
言葉は耳に届かない」
「『部長。どうして』
咲は、そればっかり繰り返してる」
「……」
「いつもそう。どれだけ咲の事を案じても、
思いは咲に届かない」
「…そう。いつも」
「……」
「すぐに怪我を治して、さっさと咲を迎えに行って」
--------------------------------------------------------
咲に刺された私は、宮永さんの通報で
救急車で搬送されたらしい。
咲は同行できなかった。
一人、警察に連れていかれてしまったから。
幸い、刑事事件には至らなかった。
その場に居合わせた全員が事故だと主張した事。
咲がまだ未成年だった事。
そして何より…
咲の精神が崩壊してしまっていた事。
これらの理由から咲は不起訴となり、
精神病院にその身を移した。
今は抗精神病薬を打ちながら
カウンセリングを受ける毎日らしい。
もっとも、まるで効果は出ていないらしいけれど。
――ああ…ごめんなさい、咲
歯がゆい日々が続いた。幸い死こそ免れたものの。
私の腹部に空いた穴は、
そう簡単に塞がってくれるものではなかった。
一度は病院を抜け出してみたものの。
激痛に途中で意識を失い、病院に送り返された。
「…馬鹿な事してないで。
貴女まで精神病院行きになる」
「咲の事を思うなら、一刻も早く怪我を治して」
低い声で諭す宮永さんの言葉。
私は、唇を噛みしめる事しかできなかった。
--------------------------------------------------------
病室に縛られて動けない間、
宮永さんと何度も話した。
憎しみも、悲しみも。
羨望も、何もかも互いにぶちまけた。
話してみて初めてわかる。
彼女が、どれだけ咲の事を案じていたのか。
向き合ってみてわかる。
あの時の私が、どれ程醜く歪んでいたのか。
なんて事を嘆いたら、
彼女は大きくため息をついた。
「正直、それはお互い様」
「私も貴女に嫉妬してた。
私は何年かけても咲を戻せなかったのに。
貴女はものの数か月で咲を治した」
「…そして、たったひと月足らずで咲を壊した」
「多分、貴女が一言声をかけるだけで。
あっさり咲は我を取り戻すんだろうね」
「悔しくて仕方がないよ。
それでも、私は貴女に願うしかない」
「どうか…咲を救ってほしいって。
本当は、自分の手で救いたいのに」
握り締めた拳が震えていた。
きっと、彼女は私以上に
歯がゆい思いをしているのだろう。
早く傷を治さなければならない。
咲はもちろん、彼女の苦しみに終止符を打つためにも。
結局、私の傷が塞がるには
二か月もの月日が必要だった。
退院の手続きが終わるなり、
病室を飛び出して走り出す。
目指すはもちろん咲のもと。
そう、精神病院へ。
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--------------------------------------------------------
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ずっと、同じ夢を見ていた
それは、部長を刺し殺す夢
わたしはお姉ちゃんに包丁を突き刺そうとする
でも包丁が届く瞬間、その姿は部長に変わり
包丁はそのまま部長を貫いて、部長は倒れて息絶える
ずっと、それの繰り返し
もう、何度部長を殺しただろう
これから、後何回部長を殺せば終わるんだろう
わからない
そう考える間にも
わたしはまた部長を殺す
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ねえ、部長
部長は何がしたかったの?
わたしには全然わからないよ
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ごめんなさい、寸前で気がついちゃったの
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なにに?
自分の間違いに
間違いってなに?
お姉さんを殺して、咲が幸せになれるわけがないって事
なれるよ?わたし、部長が居れば幸せになれるもん
ありがと でもね、それは間違いなの
私が咲を、そう思い込むように洗脳しただけ
貴女の幸せに、お姉さんは必要不可欠なのよ
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…だって、貴女達は…『家族』なのだから
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丸々三年。
私が病院から解放されるまでに、
実にそれだけの年月が必要になりました。
今日はその最終チェック。
私の前には、あの時と同じように。
お姉ちゃんとのツーショット写真が
置かれています。
「…どうかしら」
「…大丈夫。何とも思わないよ」
「そう。なら、完全に治ったみたいね」
「…うん」
私を迎えに来たあの日。あの時の行為を、
部長は『洗脳』と表現しました。
当時は信じられなかったけど、
今になればわかります。
確かにあれは、洗脳だったのでしょう。
目の前に置かれたお姉ちゃんの写真。
初めてそれを見せられた時、
私は即座に破り捨てようとしました。
『…駄目よ』
それを、部長の手に止められて。
何度も何度も謝られて。
それを繰り返すうちに、少しずつ。
少しずつ、お姉ちゃんへの愛情が戻ってきたんです。
「ごめんね。本当にどうかしてた」
「そうだね。でも、それはお互い様だよ」
申し訳なさそうに頭を下げる部長。
この数年で、もう何回その姿を目にしたでしょうか。
その度に、胸がぎゅっと締め付けられます。
だって、部長が狂ってしまったのは。
そもそも私のせいなんですから。
『貴女が、私を捨てて逃げようとしたから』
結局は、私が部長をないがしろにした事が原因。
一番悪いのは私なんです。
でも、部長の考えは違うみたいでした。
「じゃあここからは宮永さんにバトンタッチするわ。
今まで、本当にごめんなさい」
部長が席を立とうとします。
そのまま私に背を向けます。
酷く小さく見えました。
その背中を見て直感します。
――今度は部長の方が、
私を捨てて逃げようとしてる
もっとも、そんな事は許しませんけれど。
だってあの日。罪の意識に潰されて、
一度はお姉ちゃんを諦めようとした私を。
叱咤してくれたのは部長じゃないですか。
だから今度は、私が部長に怒る番。
「…私の前から姿を消すの?」
「一緒に居ちゃ駄目なのよ。
またいつ貴女を壊しちゃうかわからないもの」
「思い出してよ。そりゃ、
洗脳はあったかもしれないけど。
そもそも私、洗脳を受ける前に
一回決断してるんだよ?」
「未来の全部と、部長を天秤に掛けて。
それでも、部長を選ぶって」
確かにそれは、思考力が鈍った中での
決断だったかもしれません。
そう答える様に誘導されたのかもしれません。
それでも、私は決断したんです。
この人と引き換えなら、全てを犠牲にしてもいいと。
その気持ちは、今でも変わりがないんです。
「なのに部長は責任取ってくれないの?
もう、私と家族になんてなりたくない?」
「そんなわけ…ないでしょ……!」
「だったら何も問題ないよ。
ていうか私、部長に傷ものにされてるんだよ?
そっちの方が大問題だよ」
「責任取って、竹井咲にして?」
部長は私の言葉に面食らったようでした。
そして左右に目を泳がせると、
見当違いの事を口走ります。
「…お姉さんが許してくれるとは思えないけど」
「もう!お姉ちゃんの事なんか知らないよ!」
「咲、洗脳解けてないんじゃない?」
「今のは普通の話でしょ!?
結婚の話にお姉ちゃんなんか関係ないよ!」
「……」
「ぷっ」
「あははははっ」
ひとしきり二人で笑って。
そして、少しの沈黙が流れます。
部長は私の目を正面から見つめます。
私も部長を見つめ返しました。
その目はかすかに潤んでいました。
「…本当に、いいの?」
「うん」
「私を、竹井家の家族にしてください」
私の言葉を受けた部長は、両目に涙を溜めながら。
私を固く抱き寄せて、そっと唇を重ねたんです。
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私は一人ぼっちだった。
血を分けた両親にすら捨てられて、
家族と呼べる存在はいなくなった。
たくさんの人に囲まれて、
へらへら笑顔を繕いながら。
陰ではいつも泣いていた。
何の気なしに隣を見たら、
同じように泣きじゃくる子がいた。
その子はまだ助かりそうだった。
――せめて、この子は救われて欲しい
別に報われなくていい。そう思ってた。
幸せになった貴女を見つめる事ができるだけで、
私も幸せになれると思った。
だから私は手を差し伸べた。
(…それが、どうして
こんな結末になったのでしょうね?)
幸せにすると誓ったはずの相手。
私はそんな相手の心を醜く捻じ曲げ、
最愛の人を殺させようとした。
あげく、最後の最後で手の平返し。
結果、あの子の心は崩れ去り。
大切な青春の日々を奪い去った。
(…それが、どうして
こんな結末になったのでしょうね?)
犯した罪が消える事はない。
私は一生、この罪悪感を
背負って生きていくのだろう。
それでも。
目の前には、ウェディングドレスに
身を包んだ咲が居る。
新婦側の来賓席には、照の姿も伺える。
私は確かに間違えた。
でも、二人は私を許してくれた。
責任を取れと言ってくれた。
私が一番欲しかったものを与えてくれた。
そう、それは『家族』という名の絆。
輝くベールに包まれて、咲が優しく微笑む。
ベールをそっとめくりあげると、
咲の唇を指でなぞった。
(…本当に…どうして……)
(こんな結末になったのでしょうね?)
涙が零れ落ちそうになる。
必死でそれを押し留める。
取り返しのつかない罪を犯した。
許されるはずがないと思った。
それでも、この子は…私のそばにいてくれる。
なら私のする事は一つ。
今度はもう、絶対に間違えない。
瞳を閉じて、咲の唇にキスを落とす。
瞼を上げると、涙で目を輝かせる咲が居た。
「…幸せにしてくださいね?」
「誓うわ…貴女を、絶対に幸せにして見せる」
そして今日、私に家族ができた。
たった一人の、かけがえのない家族が。
(完)
久「このお話の私視点よ」
(久「どうして、こんな結末になったのでしょうね」)
<登場人物>
宮永咲,竹井久,宮永照
<症状>
・異常行動(重度)
・狂気(重度)
・依存(重度)
・洗脳(重度)
<その他>
以下のリクエストに対する作品です。
・報われなくていい。ずっとそう思ってた。
貴女を見つめることが出来るだけで、
私はずっと幸せだと思ってた。
なのにどうして。
そっと貴女の唇をなぞってみる。
どうしてこんな結末になったのでしょうね。
――という久咲。
--------------------------------------------------------
宮永咲。
出会った頃の私にとって、
彼女は切り札でありながらも、
不安材料の一つでもあった。
他の皆が自ら麻雀部の門を叩いた中で、
一人だけ勧誘によって入った部員。
さして麻雀が好きだったわけでもなく、
勝つ事に対する気概も希薄な部員。
それが宮永咲という存在だった。
そんな咲には、全国大会を目指す目的がない。
確かに勝つ楽しみは覚えたかもしれない。
強い人と戦いたいと思ったかもしれない。
でもそれは、自分が楽しめる程度の相手に限る。
事実、靖子に凹まされたあの日。
それでも闘志に燃える和に対し、
咲は明らかに意気消沈していた。
だから私は、てっきり咲はそこまで大会に
固執していないと思っていた。
思い違いにも程があった。
それを気づかせてくれたのは、
合宿中に聞いた、咲の悲痛な叫び。
「私は…全国に行かなきゃダメなんです!」
「お姉ちゃんとやり直すために!!」
あの日以来、咲の印象は大きく変わった。
守るべき特別な存在に。
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幼くして家族を失う事。
それが子供にどれだけ深刻な影響を与えるかは、
私が身をもって経験している。
私が家庭崩壊を経験したのは中三の夏。
あれからもう三年が経つというのに、
依然心の傷は開いたままだ。
今でもしばしば夢に見る。
遠のいていく背中。泣きながら伸ばす手は空を切り。
座り込んで嗚咽する。
目を覚ますと、頬が涙で濡れている。
絶望感に全身が侵されている。
そして起き上がる気力もなく、
そのまま肩を震わせ続けるのだ。
家族を失うという事実はそれ程までに重い。
相手を愛していたならばなおの事。
そしてそれは、咲も同じなんだろう。
家族の事を話す時。咲は苦痛に胸を押さえていた。
心の痛みに耐えながら、必死に言葉を紡いでいた。
「…お姉ちゃんは、一言も
口を利いてはくれませんでした」
「でも、麻雀でなら。麻雀を通してなら、
話ができるかもしれないんです」
「私達が一番たくさん遊んだのは…
なんだかんだ言って、麻雀でしたから」
「もう、私には…これしか手がないんです」
唇を噛みしめ、自らの拳を握りしめ。
沈痛な面持ちで語った咲。
その目には、悲しい決意が浮かんでいた。
「そっか」
なんて哀れな子だろうと思った。
血を分けた家族と語り合う方法が、
唯一麻雀しかないだなんて。
同時に羨ましいとも思った。
状況はどうあれ、咲はまだ『終わってない』。
完全に望みを断ち切られた私とは違い、
咲にはまだ一縷の望みが残されている。
助けたいと思った。
目の前の少女が、絶望して膝をつくのは見たくなかった。
あんな絶望は自分だけでたくさんだ。
託したいと思った。
私には叶えられなかった夢。
そう、家族を取り戻すという夢を。
私は咲の手を取った。
両手でその手を包み込んで、
ぎゅっと固く握り込む。
「…ぶ、部長」
「私もね。両親が離婚したの。
そして、人生が滅茶苦茶になった」
「私は両親を愛していた。でも、一家は離散。
会いたくても、もうどこに居るかすらわからないわ。
完全に他人になっちゃったから」
私の言葉に、咲は目に涙を滲ませる。
震える体を抱き寄せると、
咲は小さく丸まって嗚咽した。
私のために泣いてくれた咲。
その姿を目の当たりにした瞬間、
私の中での優先順位が大きく変わる。
「貴女には、絶対にこの悲しみを味わわせない」
私にとっての一番が咲に変わった。
この子を絶対に悲しませない。
絶対に幸せにして見せる。
それが、私の人生の目標になった。
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咲が幸せになる手助けをする。
そう心に決めたはいいものの、その前途は多難だった。
正直今のままでは、
復縁は絶望的としか思えなかった。
『麻雀を通して語り合う事で、
お姉さんと仲直りする』
どうしても、この作戦に
希望を見出す事ができなかったのだ。
聞けば、わざわざ東京まで一人で会いに行ったのに、
お姉さんは一言も口を利いてくれなかったと言う。
二人の確執は相当なものに間違いない。
なのに麻雀で語り合う?
お小遣いを守るために、勝負を捨てて
プラマイゼロにしていた麻雀で?
(それって、お姉さんは楽しめていたの?)
勝つ気のない相手との勝負が面白いとは思えない。
しかも須賀君によれば、咲は麻雀がキライだと
繰り返し言っていたはず。
その気持ちは、態度は。
お姉さんに伝わっていたと考えるべきだろう。
(…いやこれ、ノーチャンスでしょ。
何か別の手を考えないと)
咲が縋りたくなる気持ちはわかる。それでも、
その望みは断ち切られているとしか思えなかった。
希望の兆しは見えない。なのに、
不安材料だけは簡単に増えていく。
それは、私達が全国出場を決めた後の、
お姉さんのインタビュー。
出場選手にチャンピオンと同じ名字を見つけた記者が、
親族の可能性を突き付けたのだ。
たまたまテレビをつけていた私は、
思わず身を乗り出した。
まさかこんな形で彼女の思いを知る機会が
与えられるとは思わなかった。
固唾を飲みながら次の発言を待つ。
『……』
一呼吸の沈黙の後、彼女は平然と口にした。
全国ネットのインタビューで。
『私には、妹は居ません』
それは明確な拒絶。存在すら否定する、究極の拒絶だった。
「……っ!!」
私は握り締めた拳をテーブルに叩きつけた。
激しい打撃音はテーブルを伝わり、
遠くで洗い物をしていた咲の耳にまで届く。
「…部長、どうしたんですか!?」
幸い、咲は放送を聞いていなかったようだった。
咲が駆け寄ってくる前に、
慌ててテレビのチャンネルを変える。
「……ああ、ああ。なんでもないの。
いきなり目の前に蚊が飛びこんできたから、
反射的にテーブルを蹴っちゃっただけ」
「あーもう、本当にビックリしたわ」
「あはは、そういう事ってありますよね」
本当に肝が冷えた。もし、咲があの発言を耳にしていたら。
その時点で、全ては崩壊していたかもしれない。
(これ、もう一刻の猶予もないわ)
いつどこで、さっきのような発言が
繰り出されるかわからない。
テレビだけじゃない。雑誌でも、
似たような取材があってもおかしくない。
そうなればいつかは咲の目に留まる。
それでおしまい。咲は立ち上がる力を失うだろう。
「…何とかしないと」
少しでも状況を打開しておく必要がある。
その日のうちに、私は東京行きの電車に乗り込んだ。
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翌日。私は単身、白糸台高校の
正門前に立っていた。
警備員の前でこそ、来訪者として
大人しく通り抜けたものの。
その後はずかずかと部室に踏み入っていく。
殴り込みだ。
「失礼するわ」
突然姿を現した他校の生徒に、
部員達がざわめき始める。
構う事なく、敵意丸出しの視線を巡らせると、
喧騒はさらに広がっていった。
「静かに!」
一瞬で場が凍りついた。声を発した、
背の高い藍色髪の女生徒が
酷く冷たい声で話しかけてくる。
「…誰だお前は。ここは白糸台高校の
麻雀部員以外立ち入り禁止だぞ」
「わかってるわよ。用が済めばすぐに立ち去るわ。
私は、冷酷無比で血も涙もない
チャンピオンに文句を言いに来ただけ」
「…私の事?」
一人の少女が立ち上がる。
その頭部には、咲と同じ特徴的な癖毛があった。
「他に誰がいるのよ。血を分けた実の姉妹すら
全国ネットで否定する宮永さん」
「……」
「そこまでだ!部員は通常通り部活を続けてくれ!
…なお、今この女がした発言については
部外で吹聴しないように」
鋭く射抜くような目つきで私を睨みつけながらも、
弘世さんが冷静に指示を下す。
部内はかすかな戸惑いを残しながらも、
偽りの平穏を取り戻した。
「お前はこっちに来い。別室で対応しよう。
…照も、いいか?」
「うん」
異物と化した私達は、黙って大部屋を後にする。
通された部屋は個室だった。
しかも、どうやら宮永さん専用の。
さすが天下の白糸台高校。
上位成績者には個人ルームが割り当てられるらしい。
ともあれ、最初の作戦は成功した。
殴り込みと言っても、もちろん言葉通りの意味ではない。
私が欲するのはあくまで情報。
咲と彼女がぶつかってしまう前に、
言葉の真意を知っておく必要があった。
(もちろん、言葉通りの意味だったなら、
絶対に許さないけどね)
部屋に入っても一度として
視線を宮永さんから外さない私。
それを見て弘世さんはため息をつきつつも、
ぶっきらぼうに問い掛けてくる。
「…で、お前は何者なんだ」
「清澄高校麻雀部の部長、竹井久よ。
咲…宮永咲のチームメイト」
「不躾な態度だったのは認めるわ。
でも、それだけの言動を彼女はした」
「あの言葉の真意、聞かせてもらうわよ。
そのままの意味だったら覚悟して頂戴」
「……だそうだ。まあ、確かにあの発言は
私もどうかと思ったが」
弘世さんが肩をすくめながら宮永さんを見る。
目を血走らせる私に対し、
宮永さんの反応はどこまでも冷静だった。
彼女は淡々と言葉を紡ぐ。
「…あの時は、ああ言うしかなかった」
「もし私が認めたら、咲にメディアが殺到する。
生い立ち、経歴、人間関係。
咲の全てにメディアのメスが入る」
「それが咲にとっていい結果を生むとは思えない」
「…ふーん」
表面上は敵対の姿勢を保ちつつも、私は内心安堵した。
少なくとも、あの発言に敵意はなかった。
むしろ、咲に対する気遣いに溢れていると言える。
「その可能性は否定しないわ。
でも、あの発言を咲が聞いたら。
それこそ取り返しのつかない事に
なっていたと思わないの?」
少しだけ語気を弱めつつも、私はさらに糾弾する。
悪意がなかったとはいえ、咲が聞いていたら
破滅だった事に変わりはないのだ。
二度目が起きないように釘は刺しておきたい。
でも、宮永さんから返ってきた反応は、
意表を突くものだった。
「聞いてなかったでしょ?」
それは答えを知っているかのような、
断言する口ぶりだった。
私は思わず口をつぐむ。
確かに聞いてはいなかった。でもそれはただの偶然だ。
なのに、どうして断言できる?
わからない。わからないけれど…
強烈に嫌な予感がする。
背筋を冷たい汗が通り抜けた。
「…どうしてわかるの」
「私だって、咲を放置していたわけじゃない。
状況はお父さんから定期的に教えてもらってる」
「咲はまだ、『あの事件』から立ち直っていない。
トラウマを乗り越えられていない」
「それなら、私の声は咲に届かない。
拒絶しているのは咲の方」
「貴女は、そこまで踏み込めた上で……
私に対話を求めているの?」
「……っ」
返す言葉がなかった。
宮永さんの口から語られた事実。
それは私にとって初耳で。
何か事件があった事も、まして事件の内容もなんて、
咲は話してくれなかった。
「……話は終わりみたいだね」
沈黙を貫く私を前に、宮永さんが立ちあがる。
彼女は私を見下ろしながら、
最後まで淡々とした口調で言葉を切った。
「咲が私に会いたがってるのなら、
それとなく伝えてほしい」
「今の貴女が私と対話を求めても無駄だと」
あまりにも無慈悲な宣告だった。
それでも、それを覆すに足る情報を持たない私は、
ただ受け入れるしかない。
「……邪魔したわね」
血が滲むほどに強く唇を噛みしめながら、
私もゆっくりと席を立つ。
そのままドアを開いて立ち去ろうとしたら、
背後から一言声を掛けられた。
「私の声は、トラウマを抱えた咲には届かない」
「どうか、咲を救ってほしい」
それまでの淡々とした口調からは一転。
その声には、抑揚が混じっていた。
「……っ!?」
私は思わず振り返る。彼女は背を向けていた。
だからその表情は見えない。
それでも、その震える声が。
彼女の本心を如実に物語っている気がした。
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思えばおかしな話だった。
本来なら、何をおいても一番に聞かなければいけない点。
それを、私は意図的に遠ざけていた。
そう。咲と宮永さんが仲違いした原因を。
咲が話そうとしなかったのは事実。
だから無理に引っ張り出して、
傷口を広げるような真似は控えたのも事実。
でも今にして思えば。
私は感じ取っていたのではないか。
触れる事を躊躇う程の深い闇。
それを咲の態度から感じ取って、
怯えて後回しにしてしまっただけではないのか。
『どうか、咲を救ってほしい』
言葉を聞いた限り、宮永さんは咲を案じている。
声が届かないとも言っていた。
つまり宮永さんも対話を試みたという事だ。
咲から聞いていた話とは随分と乖離がある。
振り返ってみれば、
他にも確かにおかしな点はあった。
咲は姉関係の情報のほとんどを
シャットアウトしていたのだ。
雑誌などの情報は追っていたものの、
いざ姉が映像に映る段階になると、
頑なにそれを避けていた。
咲が、何らかのトラウマを
抱いているのは間違いないだろう。
(それを突き止めて、解消しなければ…
咲は幸せを掴めない)
知る必要がある。咲の過去に何があったのかを。
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咲が居ない時を見計らって、
宮永家の門戸を叩いた。
「…君は?」
「竹井久と言います。清澄高校麻雀部の部長を務めてます。
今日は、咲についてお話を伺いたくて参りました」
「…咲を苦しめる過去の事件について」
「…!?い、いきなり何を」
「宮永照さんにも頼まれています。
私に咲を救ってほしいと」
「私は知る必要があるんです。咲の過去を。
咲を、トラウマから救うために」
私を出迎えた男性…
おそらくは咲のお父さんだろう。
界さんは唐突な訪問に戸惑いながらも、
門前払いする事はなく。
足で玄関のドアを開けたまま、
思案顔で黙り込んだ。
「……」
腕を組み、目を閉じて考え込む事数十秒。
やがて、界さんは口を開く。
「…わかった。照がそう言ったのなら。
どの道、俺達じゃ手詰まりだったんだから」
界さんは私を部屋に招き入れる。
もっとも部屋にあげられた後も、
界さんはなかなか
話を切り出そうとはしなかった。
「……」
そこまで重たい話なのか。沈黙を受けて、
それなりの覚悟をしてきたはずの私の心も
少しずつ縮こまっていく。
私の震えを肌で感じたのだろう。
界さんは大きく大きくかぶりを振ると。
ついに決心したように、
ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「まず初めに言っておく事がある」
「…咲は、心の病気なんだ」
そして界さんは語り出す。
咲の身に起こった事件。
咲と睦まじかった、車椅子の少女の話を。
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そして私は全てを知った。
知った今なら頷ける。宮永さんが、
咲から距離を置いていた理由も。
咲が彼女を訪ねた時に、
一言も口を利いてもらえなかったと
『錯覚した』理由も。
問題は全て咲の内側にあった。
罪の意識から、咲は宮永さんの言葉を遮断していた。
『許してもらえるはずがない』
そう自ら決めつける事で。
私にその壁が壊せるだろうか。
自信はない。でも、やるしかない。
家族の言葉は咲に届かなかった。
でも、いっそ部外者の私ならどうか。
事件に無関係の私だからこそ、
伝えられる言葉があるのではないか。
「ねえ咲。話があるの」
私は、咲を部屋に呼び出した。
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「なんですか?」
「これからの話をしましょう」
「これから私達は、全国大会に出場する。
そして、貴女はお姉さんと対峙する」
「はい」
「でも、わざわざそんな事
しなくてもいいって言ったら……
どうする?」
「…はい?」
「お姉さんと連絡が取れたの。
貴女と話してくれるって」
「貴女が望むなら、今すぐにでも会話できるわ。どうする?」
「…な、何言ってるんですか…
お姉ちゃんは、前に、一言も、口を」
「違う。お姉さんは貴女に話し掛けていた。
それが貴女に聞こえてなかっただけなのよ」
「嘘!?そんなわけない!だって!」
「咲!気づいて!貴女の行動は矛盾してるの!」
「お姉さんと話すためって言いながら、
貴女はお姉さんを遠ざけてる!」
「口を利いていないのは貴女!
対話を閉ざしているのは
貴女の罪の意識なのよ!!」
「…!?」
「逃げちゃ駄目!向き合って!
トラウマを乗り越えるのよ!!!」
「……」
「……」
「……」
「……咲?」
「……無理だよ!」
「咲!」
「認めちゃったら終わりだもん!
向き合ったら終わりだもん!
許してもらえるはずないんだから!」
「咲!!」
「…っ、あはは…そっかぁ…!
最初から無理だったんだ…!
許してもらえるはずないもん!
私はそれだけの事をしちゃったんだから!」
「もう私は終わってたんだ!
あの子はもう戻ってこない!!
だって、私が、あの子を、殺」
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「そんな事どうでもいいのよ!!!」
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辺りがしんと静まり返る。
私のあまりの剣幕に、
咲は毒気を抜かれたようだった。
「ど…どうでも、いいって」
「…咲。誤解を恐れずに言うわ。
私はその子の話、ちっとも興味がないの」
「だって、もう退場したんでしょ?
だったら考えるだけ無駄じゃない」
「…え」
「その子はもう貴女を捨てたの。
二度と戻ってこないのよ」
そう。どれだけ手を伸ばしても。
どれだけ泣いて縋っても。
一度いなくなってしまった人は、
二度と戻ってきてくれない。
私はそれを、経験則でわかっている。
「戻ってこない子に縛られてどうするのよ。
その子しか居ないってならまだしも、
貴女にはまだ家族が残されてるでしょう?」
そう、私とは違って。
「で、貴女以外の人は、
貴女を責めたりしていないのよ?」
「…嘘、そんな、嘘」
「いい加減気づきなさいよ!!」
「……っ」
無念の思いに、怒りに支配されていた。
私は咲の体を掴みながら叫ぶ。
「誰も貴女を責めたりなんかしてない!
むしろ貴女の事を心配してる!
なのに、貴女はそれを拒絶してるの!
馬鹿らしいと思わない!?」
まったく理解できなかった。
もう居ない人間に囚われて、
今いる人の縁まで断ち切るなんて。
「しかも、それも今のうちだけ!
貴女がずっとその調子なら、
いずれ皆去って行くわ!」
「引きこもってる暇なんかないの!
こんだけ恵まれた状況で、
どんだけ泣き事言えば気が済むのよ!」
知らず知らずのうちに、涙が頬をつたっていた。
やり場のない悲しみが、
後から後から噴き出してくる。
だって咲の問題は、咲の気持ち一つで解決できるのに。
私なんか、あがく事すら許されなかったのに。
私のそれと比べれば…
「貴女は…貴女は…!」
「まだやり直せるじゃない!!!」
一際大きな怒号が、部屋全体に響き渡る。
「……」
長い間、時が止まった。
そのまま、永遠に動き出さないかとすら思えた。
「……」
でも、やがて。
咲の口から言葉が零れる。
「…本当。ですか」
「本当に。私は。やり直せますか」
「…馬鹿。そもそも貴女は、
そのために全国を目指したんでしょう」
「やり直せる…貴女は……!」
咲の目から涙が零れる。
そのまま崩れ落ちそうになる咲を支えると、
強く、強く抱き寄せた。
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--------------------------------------------------------
結論を先に言ってしまえば、
咲は見事にトラウマを乗り切った。
今もまだ、時々思い出してふさぎ込む事はある。
それでも一人で抱え込む事はなくなって、
素直に周りを頼れるようになった。
そして、ついにその日が来る。
二人の姉妹が、その顔を合わせる時が。
「…咲。私の、声は聞こえる?」
「お姉ちゃん…」
戸惑うように語り掛ける宮永さん。
きっと過去にも同じように話しかけ、
その声は届かなかったのだろう。
でも、今の咲は違う。
「聞こえる…聞こえるよ……!!」
咲はその声に反応した。
妹は目に涙を浮かべながら姉の胸にすり寄って。
姉はそんな妹を優しく抱擁した。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん…!」
「咲…!」
固く抱き締めあう二人。
私はそんな二人を遠巻きに眺めながら。
一人涙を流していた。
――おめでとう…咲
貴女は、家族を取り戻す事ができた
……私とは違って。
私には無理だった。
そもそも選択権なんてなかった。
(でも、それでよかったのよ)
そんな私だからこそ、
咲に言葉を届ける事ができた。
だから私は、これでいい。
今こうして、幸せになれた咲を。
遠くから眺めるだけでいい。
それだけで、私は幸せになれるから。
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でも、私の幸せはそこまでだった。
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全国大会が終わるなり、
咲は清澄から姿を消したから。
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はにかんだ笑みを浮かべながら、
咲は部室を去って行った。
『せっかく仲直りできたんだし、
今まで失った時間を
取り戻したいって言われちゃって』
『夏休み中は、東京でお姉ちゃん達と
過ごす事にしました!』
なんて事を言いながら、
私の前から姿を消した。
今頃は、家族水入らずで
楽しい時を過ごしているのだろう。
つまり、私はあっさり捨てられたのだ。
私は宮永家の家族にカウントされなかった。
当然だ。所詮、私は血も繋がっていない
赤の他人なのだから。
でも、それ以上に悲しかったのは。
咲が、この期に及んで、
私よりも家族を優先した事。
咲が取り戻した家族の縁。
それは一年、二年なんて単位で
途切れる事はなく。
きっと一生続いていくのだろう。
それに比べて、私は程なく麻雀部を引退する。
一年も待たず清澄高校を卒業する。
私が咲と過ごせる期間は、
家族のそれとは比較にならない程に短い。
そんな両者を天秤にかけて。
それでも、咲は私を捨てて家族を選んだのだ。
悲しかった。ただ、ただ。
悲しかった。身が千切れる程に。
「……」
私は一人帰路に就く。いつもは繋がれていた右手。
今はその手を握る者は居ない。
「…ただいま」
寒々しい部屋の玄関を開ける。
いつもなら横から聞こえる
『お帰りなさい』の声。
今日は、空しく静寂が挨拶を返した。
心に、ぽっかり大きな穴が空いた気がした。
思わず自重の笑みが零れる。
「あはは。結局、そんなもんなのよ。
だって私、家族じゃないもの」
「ははっ。別にいいじゃない…捨てられたって。
見返りなんか求めてなかったでしょう?」
「咲が幸せならそれでいいって。
そう考えてたはずじゃない」
「あは。あはは」
「あははははははっ……」
「……っ」
「そんなわけ……っないじゃない……っ!」
報われなくていいなんて嘘。
見てるだけで幸せなんて嘘。
そんなので満たされるはずがない。
私を見てほしかった。
家族に加えてほしかった。
――私を…愛してほしかった!
自分が壊れていくのを感じる。
心が黒く塗り潰されていくのを感じる。
悲しみと、後悔と、嫉妬と、殺意。
全ての感情が私を作り変えていく。
「……」
「…どこで間違えたのかしら」
「…どうしたら、私は幸せになれたのかしら」
「どうしたら、私は、宮永さんより……っ」
危ういところで我に返った。
ああ、駄目だ。このままじゃ。
私は。咲の幸せを壊してしまう。
あれほど願った咲の幸せを。
私自ら壊してしまう。
私は、咲の側に居てはいけない。
震える手で机から便箋を取り出した。
別れの言葉を記そうと。
私は文字を綴り出す。
文字はどんどん吐き出され、
いつしかそれは呪詛と化した。
「……っ!」
私は便箋を破り捨てる。
気持ちが溢れて仕方なかった。
綺麗な言葉を並べ立てて、立つ鳥跡を濁さず消えたいのに。
気づけば逆の言葉ばかり書き連ねている。
『捨てないで』『一人にしないで』
『私から逃げないで』
滲む視界を無理矢理拭う。
無理だ。私は想いを綴る事を諦めた。
だから、ただ一言。
本当に、事実だけを淡々と記す事にした。
『さようなら』
言葉に乗せ切れなかった重過ぎる想い。
それが咲に伝わる事はないだろう。
それが、例えようもなく悲しかった。
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--------------------------------------------------------
別れを告げる決意をした後も。
未練がましい私は、しばらくの間
みっともなく想いを引きずり続けた。
結局手紙を置けたのは。
秋風が冷え切り、自由登校が始まった頃だった。
「…何しとるんじゃ?」
人知れず手紙を置いて去ろうと思っていたのに、
折悪しくまこと鉢合わせてしまった。
内心気後れしながらも、淡々と事実を口にする。
「まこ。私は今日を持って部活を卒業するわ。
ううん。もう卒業まで学校にも来ない」
「…咲の事か」
「…気づいてたの?」
「伊達に長い間、お前さんと二人で
過ごしとったわけじゃないけぇの」
驚いた事に、まこはぴたりと言い当てた。
苦笑しながらもその目は優しく、
私を案じてくれている事がわかる。
「だったらわかるでしょ。
私は咲のそばに居てはいけない」
「自覚してるの。私は今おかしい。
このままじゃ、何をするかわからない」
「…そうか」
「じゃが、お前さんは一つ見落としとるぞ。
お前さんが居らんくなったら、
咲は間違いなく後を追うじゃろう」
「…ありえないわ。咲は私を捨てたのよ?」
「…お前さんが勝手にそう思っとるだけじゃ」
「だったら、その時はまこが咲を止めて頂戴」
「お互いに想いあっとるのに
なして止めにゃいかんのじゃ」
「言ったでしょ。何をするかわからないって」
それを証明するかのように、
私はまこを正面から見据える。
私の目から狂気を感じ取ったのだろう。
優しかったまこの目が、
恐怖と戸惑いに揺らぎ始める。
「……何が『想いあってる』だか」
「…夏休みのあの日。私が一番求めていた時に、
咲は家族を優先したじゃない」
「私を追いかけてきたら何?どうせ、
『お姉ちゃん』が来たら
そっちに流れるんでしょ?」
「……」
「…宣言するわ。もし咲が私を追いかけてきたら。
私は咲を壊す。私しか見えないように作り変える」
「…だから。私のところに咲を連れてこないで」
「……」
心の奥から溢れだす狂気。
それを隠す事なく見せつける。
自分ではもう止められないから。
壊れていく自分を止められないから。
なんとかまこに止めてほしかった。
でも。まこが出した結論は。
「断る」
「どうして!」
「優先順位の問題じゃ。そりゃぁ、
咲は大切な後輩に違いない」
「でもな…わしにとって、一番大切なのは…」
「久。あんたなんじゃ」
「咲が壊れて、あんたが幸せになれるなら…
わしは見て見ぬふりをする」
「止めたいなら、自分で止めんしゃい」
そう言って、まこは寂しそうに笑った。
「…っ、杞憂よ。どうせ、咲は私を追ってこない。
私なんかより、もっと大切な家族がいるのだから」
言葉で可能性を切り捨てる。
でも心は疑念に囚われていく。
もしかして、咲は追いかけてくるのだろうか。
だとしたら、私は咲を諦めなくてもいいのだろうか。
壊してしまってもいいんだろうか。
幸せを求めてもいいんだろうか。
決意はいびつに歪み始める。
幸せを願う別離の手紙は、ほの暗い罠に姿を変える。
わかっていても、
私はもう止める事はしなかった。
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手紙を残し、学校から去る事数日。
誰にも会わない日々が続いた。
呼び鈴に飛び起きて駆けつけるも、
宅配か勧誘の業者ばかり。
咲の姿はどこにもなかった。
(…結局、そんなもんなのよ)
失望の念がこみあげる。
『所詮、お前はその程度の存在だったのだ』と
突きつけられた気分だった。
心に空いた穴が広がっていく。
(…でも。単に気づいてないだけかも)
すぐさま都合よく思い直す。
咲に捨てられた可能性を受け入れるには、
私の心は傷つき過ぎていた。
でも。でも。でも。
ぐるぐる、ぐるぐる。
答えの出ない憶測が頭を駆け巡る。
ただ一つ確かな事。それは、
結局咲は来ていないという事だけ。
その事実が大きく圧し掛かる。
私の心を狂わせていく。
「……っ!!」
頭をガリガリと掻き毟る。力任せにガリガリと。
指に血を滲ませながら、私は一人自分を諭す。
「来なかった時の事を考えるのはやめましょう!
その時はどうせ終わりなんだから!」
咲が来た時の事だけ考える事にした。
なら、実際に来たらどうしようか。
決まってる。もう二度と離さない。
でも、具体的にはどうやって?
(そうだ、自分を人質にしよう)
咲の未来と、私の未来を天秤に掛けさせる。
咲が本当に私を必要としてくれているなら、
逃げずに留まってくれるはず。
その後はじっくりと私で染めてしまえばいい。
もし逃げられたその時は…
うん。諦めてこの世を去ろう。
「…そうと決まれば、さっさと準備しないとね」
咲が来るまでの時間。その全てを、
咲を閉じ込めるためだけに費やした。
首輪も調達した。それに繋がるチェーンも買った。
如何わしい睡眠薬も手に入れた。
監禁の準備は着々と進んでいく。
「…あ、これ駄目だわ。
紅茶に入れるとすっごいマズい」
「コーヒーならどうかな…うーん。
まぁこれならごまかせるかしら?」
準備をするという行為が、さらに私を狂わせていく。
自分の中に微かに残っていた良心が
消えていくのを感じた。
――ああ、咲 早く壊されに来て
咲を壊せる日がやって来るのを、
心待ちにするようになった。
そして……
「…ぶ、部長…いらっしゃいますか……?」
ついに、咲はやってきた。
満を持して、私に壊されるために。
--------------------------------------------------------
睡眠薬で眠らされて、
知らぬ間に首輪をはめられて。
それでも、咲は逃げ出そうとはしなかった。
「そ、その…保留にさせてください」
私と未来を天秤に掛けて。
結論を出す事を躊躇ってくれた。
だからと言って、私はそれで
満足するつもりはなかった。
(…即答できなきゃ意味がないのよね)
咲は決断を保留した。
つまりそれは、どっちに転んでもおかしくない事を意味する。
もし今、ここにお姉さんがやってきたとしたら。
咲は簡単に私を捨てるのだろう。
(…予定通り行きましょう)
咲を壊す事にした。
まずは外部からの干渉を遮断する必要がある。
私は界さんに一報入れる事にした。
「あ…界さんですか。実は、咲がうちに来てまして」
「はい…どうも、その…と、トラウマが再発したみたいで」
「はい。しばらくはうちで引き取ります」
「ええ、はい…ちょっと普通じゃない感じでして…
多分長期欠席になっちゃうかもしれません」
「そうですね。家族旅行という事に
したらどうでしょう」
「あ。照さんには伝えないでください。
せっかく仲直りしたのに、
あまり心配させたくないですから」
「はい。大丈夫です。私が責任もって立ち直らせます。
ほら、咲も」
「…お父さん、ごめんなさい。
しばらく部長のお世話になります」
復縁のために砕身していた事が功を奏した。
界さんはまるで疑う事なく、咲の未来を私にくれた。
「よし。これで、家族の方は問題ないわね」
「で、でも…和ちゃん辺りは気づくかも…」
一仕事終えてほっとした私に、咲が口を挟んできた。
監禁されているくせに、咲は
私の身を案じてくれているようだった。
「うーん…そうねぇ」
私はしばらく思案する。少し悩んだものの、
麻雀部員には連絡を入れない事にした。
「うん。和が気づいたなら、それはそれでいいわ」
和が予想通りの動きをするとしたら。
きっと、二週間後くらいに大きな山場が来る。
それはそれで都合がいい。
それまでに咲を壊しておく必要があるけれど。
(…そのためにも、早く調教を始めないとね)
私は咲に向き直る。咲は私の目をちらりと覗き見ると、
怯えたように視線を逸らした。
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四六時中私で埋め尽くした。
動揺させ、考えさせ、消耗させ。
そして、最後に安らぎを与えた。
「…好きよ、咲。誰よりも」
「愛してる。貴女だけ居れば、
他には誰もいらない」
「だから、貴女も。私以外全部捨てて?」
その体を抱き、包み込み。ひたすら愛を囁いた。
寝ても覚めても、私だけを詰め込んだ。
私の以外の全てのものが。
溢れて、はみ出て、捨てられるように。
「…部長」
徐々に咲の表情が精彩を欠いていく。
思考が澱み、考える事を放棄していく。
抗う事なく、私に抱かれる事を求めるようになる。
「…部長。もう、私…疲れてきちゃいました」
「そっか。じゃぁ、もう寝ましょ?」
「……ぎゅってしてください」
「ふふ、喜んで」
「……いつもの、言ってください」
「…愛してるわ、咲。誰よりも」
虚ろな目をした咲が笑顔をかたどる。
咲は写真を床に置いて、両腕で私を抱き締めた。
私はその写真を押し潰す。
咲はそれに気付かなかった。
「部長、部長、部長、ぶちょう」
少しずつ、少しずつ。
咲の中から、『お姉ちゃん』が消えていく。
咲の中が、私だけで染まっていく。
咲の中で、『お姉ちゃん』が死んでいく。
それが、狂おしいほどに嬉しかった。
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そして。ついに咲は私を選ぶ。
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「…わかりました。今だけは。
少なくともこの家にいる間は」
「私は、部長の事だけを考えます」
監禁生活を続けて一週間。咲は私の手に堕ちた。
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保留とはいえ、咲はついに宮永さんを捨てた。
一度そうなってしまえば話は早い。
もう咲の崩壊は止まらなかった。
「咲…愛してる。誰よりも、貴女の事を」
「わ、私も…好きです……」
より一層激しく咲を愛した。咲も私の愛に応えた。
心はもちろん、体でも繋がった。
幾度となく咲の体をついばんた。
私の物になった証を刻みこんだ。
「もう…部長、つけ過ぎです……」
咲の体が、赤い斑点で埋め尽くされていく。
咲は恥じらいながらも、どこか
幸せそうにうっとりと微笑んだ。
迷いから解放された咲は、
私の愛情を盲目的に受け入れて。
私が何もしなくても、勝手に
どんどん壊れてくれる。
「見てください。部長」
ある日の事。ニコニコと満面の笑みを浮かべながら、
私の目の前に握った拳を突き出してきた。
「どうしたの?」
「…これ」
私が拳に視線を落とすと、咲は握った手を開く。
開かれた掌から、細切れに千切られた紙片が
ひらり、ひらりと落ちていく。
お姉さんのなれの果てだった。
「保留は保留だけど。でも、ここにいる間は
部長のものになるって決めたから」
「だから、これが。私の決意の表れです」
「ありがと、咲。愛してるわ」
「…わ、私もです…部長の事が」
「だいすき」
初めて告げた時はついに成し得なかった踏絵行為。
それを、咲はいとも簡単にやってのけた。
ただ私を喜ばせたいというだけの理由で。
「じゃ、これはもういらないわよね」
私は破られた写真をゴミ箱に捨てる。
ゴミとして消えるお姉さんを見ても、
咲は笑顔のままだった。
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監禁は期待以上の効果を生んだ。
既に目的は成ったかと思われた。
それでも私は念を押す。
咲の中で、私と宮永さんの優先順位が
完全に入れ替わったのはわかった。
でも、それだけじゃ足りない。
お姉さんを憎んでもらいたい。
万に一つでも、その順位が
再び入れ替わる事のないように。
今度は、宮永さんを全面に押し出す事にした。
触れたくない時に、必要以上に。
「んっ…ふっ…あっ」
「ふふっ…気持ちいい?」
「うんっ…すごい、気持ちいいっ…
部長っ…すきっ…だいすきっ」
「……」
「…それ、お姉さんと比べても?」
「……っ!?もう!
部長の方が好きに決まってるよっ!」
普段の会話中はもちろん、
愛を囁きあう最中(さなか)にも。
気分を削ぐ絶妙のタイミングで
お姉さんの存在をちらつかせた。
「部長はお姉ちゃんの事気にし過ぎだよ!
もうお姉ちゃんの事は忘れてよ!」
咲は露骨に機嫌を損ねた。
宮永さんが話題に上る事を嫌がるようになった。
それでも私は繰り返す。
咲の神経を逆撫でするために。
そして、ついに…咲の堪忍袋の緒が切れる。
「あーもう!わかったよ!ほら、見て!」
もう何十枚目だろうか。
いい加減見飽きた二人のツーショット写真。
咲はそれをテーブルのど真ん中に叩きつけると、
大股で台所に消えていく。
戻ってきた時には、その手に包丁を携えていた。
「…見てて」
そして、咲は、包丁を。
逆手に、握って、力任せに。
写真に、向けて、振り下ろす。
『ドスッ……!』
鈍い音を立てて、包丁がテーブルに鋭く突き刺さる。
「ほらっ。これでわかったでしょ?」
その切っ先は、見事に
お姉さんを引き裂いていた。
「…咲」
「わかったら、もうお姉ちゃんと比べるのは止めて?」
「私は部長の事が好きなの。
部長の事だけ考えてたいんだよ」
「いちいちお姉ちゃんに邪魔されるのは…
うんざりだよっ!」
咲は肩で荒い息を吐きながら。
もう一度お姉さんを貫いた。
その姿を前にして、私の胸は一杯になる。
胸の鼓動が早くなり、思わず咲を抱き締めたくなる。
それでも私は努めて冷静を装いながら、
淡々とした声で咲に問い掛けた。
「…それ、本物のお姉ちゃんを前にしても、
同じ事が言えるかしら?」
「言えるよ。お姉ちゃんが部長を苦しめるなら」
「私は、迷わずお姉ちゃんを殺せるんだから」
完璧な回答だった。
今度こそ私は咲を抱き寄せて、その頭を撫でてやる。
咲は褒められた幼子みたいに、だらしない顔で微笑んだ。
(終わったわ。もう、何も心配いらない)
準備は完全に整った。
後は、写真が実物に変わるのを待つだけだ。
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そして、決戦の日が訪れる。
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和を泳がせておいた甲斐があった。
予想通り、宮永さんは異常事態を嗅ぎつけてきた。
「…竹井さん。咲はここに居るんでしょう?」
「貴女は、前の時も私達のために頑張ってくれた。
きっと、今回もそんな感じなんだよね」
「話し合おう。今度は、私も力になれる」
宮永さんは私を責めたりしなかった。
むしろ私を気遣ってすらいた。
(本当に馬鹿な人。私が何を考えているのかも知らないで)
「…はぁ…仕方ないわね……」
私はさも苦悩したかのように溜息をつく。
憔悴しきったふりをして、
のろのろと玄関の扉を開ける。
あえて、咲から『お姉ちゃん』がしっかり見える様に。
「お…ねぇ…ちゃん…!」
予想外の人物に、咲は目を見開いた。
でも、その横で震える私を見て、
その目が爛々と燃え盛る。
間違いない。咲は、宮永さんを敵と認識した。
それでいい。さあ、リハーサル通りにして?
「…大丈夫だよ、部長」
私を安心させるように微笑むと、
咲は台所に足を向ける。かつてのリハーサルと同じように。
そして、咲は包丁を握り締めて、
標的に向かって走り出した。
「見てて!部長!!」
「殺せるよ!私!お姉ちゃんだって殺せる!!」
その動きに一切の躊躇はなかった。
終わりだ。これで咲が宮永さんを刺して、
『お姉ちゃん』はこの世から消える。
そして、咲は一人ぼっちになって。
私以外誰も居なくなる。
その時初めて、咲は本当に私だけのものになる。
(あはは、なんて簡単なの?
最初からこうしておけばよかった)
あまりに上手く行き過ぎて、
私は思わず笑いそうになっ
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――……っ!
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その時、私の横で空気が震えた
声だった それは、
隣にいた私にしか聞こえない程に小さな声
声はか細く震えていた
――咲…っ どうして……っ
絶望に染まり切った声
宮永さんのものだった
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刹那、私の脳裏に、ある場面が蘇る
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『私は…全国に行かなきゃダメなんです!』
『お姉ちゃんとやり直すために!!』
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『この子を絶対に悲しませない』
『絶対に幸せにして見せる』
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『託したい』
『私には叶えられなかった夢』
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『そう……家族を取り戻すという夢を』
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「……っ!!」
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不意に、脳裏によぎった思い。
なぜ今この際(きわ)になって、
それが浮かんだのかはわからない。
わからなかったけど。
目の前に広がる光景。
それが、その思いと正反対である事は一目でわかった。
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反射的に、私は宮永さんを覆うように立ちふさがってしまった
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咲は驚いて立ち止まろうとする
でもその勢いは止まる事なく
包丁は私のお腹に吸い込まれる
そして
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「あぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁああぁっ!!!!!」
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咲の絶叫が響き渡った
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「…以上がこの事件の顛末よ」
「成程。貴女は頭がおかしい」
「自覚してるわよ」
「……」
「……」
「…これが、貴女の求めた結末だったの?」
「…そんなわけないでしょう」
「……」
「このまま終われば、咲は壊れたまま人生を終える。
誰が聞いても文句なしのバッドエンドで」
「包み隠さず正直に言えば、
今すぐ貴女を殺してやりたい」
「…そりゃそうでしょうね」
「咲に刺された箇所を、さらに深く抉ってやりたい。
二度と蘇生できない程に、
深く、深く、深く、深く」
「……」
「……それでも、それは許されない」
「…別に、そのくらい受け入れるわよ?」
「殺せない。咲を救えるのは貴女しかいないから。
狂ってしまった咲に言葉を伝えられるのは、
多分、もう貴女だけ」
「貴女を刺した時点で、あの子は完全に壊れた。
警察に連れて行かれた時も、
ほとんど会話が成立しなかった」
「病院にも毎日行ってる。
でも、咲の目に私は映らない。
言葉は耳に届かない」
「『部長。どうして』
咲は、そればっかり繰り返してる」
「……」
「いつもそう。どれだけ咲の事を案じても、
思いは咲に届かない」
「…そう。いつも」
「……」
「すぐに怪我を治して、さっさと咲を迎えに行って」
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咲に刺された私は、宮永さんの通報で
救急車で搬送されたらしい。
咲は同行できなかった。
一人、警察に連れていかれてしまったから。
幸い、刑事事件には至らなかった。
その場に居合わせた全員が事故だと主張した事。
咲がまだ未成年だった事。
そして何より…
咲の精神が崩壊してしまっていた事。
これらの理由から咲は不起訴となり、
精神病院にその身を移した。
今は抗精神病薬を打ちながら
カウンセリングを受ける毎日らしい。
もっとも、まるで効果は出ていないらしいけれど。
――ああ…ごめんなさい、咲
歯がゆい日々が続いた。幸い死こそ免れたものの。
私の腹部に空いた穴は、
そう簡単に塞がってくれるものではなかった。
一度は病院を抜け出してみたものの。
激痛に途中で意識を失い、病院に送り返された。
「…馬鹿な事してないで。
貴女まで精神病院行きになる」
「咲の事を思うなら、一刻も早く怪我を治して」
低い声で諭す宮永さんの言葉。
私は、唇を噛みしめる事しかできなかった。
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病室に縛られて動けない間、
宮永さんと何度も話した。
憎しみも、悲しみも。
羨望も、何もかも互いにぶちまけた。
話してみて初めてわかる。
彼女が、どれだけ咲の事を案じていたのか。
向き合ってみてわかる。
あの時の私が、どれ程醜く歪んでいたのか。
なんて事を嘆いたら、
彼女は大きくため息をついた。
「正直、それはお互い様」
「私も貴女に嫉妬してた。
私は何年かけても咲を戻せなかったのに。
貴女はものの数か月で咲を治した」
「…そして、たったひと月足らずで咲を壊した」
「多分、貴女が一言声をかけるだけで。
あっさり咲は我を取り戻すんだろうね」
「悔しくて仕方がないよ。
それでも、私は貴女に願うしかない」
「どうか…咲を救ってほしいって。
本当は、自分の手で救いたいのに」
握り締めた拳が震えていた。
きっと、彼女は私以上に
歯がゆい思いをしているのだろう。
早く傷を治さなければならない。
咲はもちろん、彼女の苦しみに終止符を打つためにも。
結局、私の傷が塞がるには
二か月もの月日が必要だった。
退院の手続きが終わるなり、
病室を飛び出して走り出す。
目指すはもちろん咲のもと。
そう、精神病院へ。
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ずっと、同じ夢を見ていた
それは、部長を刺し殺す夢
わたしはお姉ちゃんに包丁を突き刺そうとする
でも包丁が届く瞬間、その姿は部長に変わり
包丁はそのまま部長を貫いて、部長は倒れて息絶える
ずっと、それの繰り返し
もう、何度部長を殺しただろう
これから、後何回部長を殺せば終わるんだろう
わからない
そう考える間にも
わたしはまた部長を殺す
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ねえ、部長
部長は何がしたかったの?
わたしには全然わからないよ
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ごめんなさい、寸前で気がついちゃったの
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なにに?
自分の間違いに
間違いってなに?
お姉さんを殺して、咲が幸せになれるわけがないって事
なれるよ?わたし、部長が居れば幸せになれるもん
ありがと でもね、それは間違いなの
私が咲を、そう思い込むように洗脳しただけ
貴女の幸せに、お姉さんは必要不可欠なのよ
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…だって、貴女達は…『家族』なのだから
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丸々三年。
私が病院から解放されるまでに、
実にそれだけの年月が必要になりました。
今日はその最終チェック。
私の前には、あの時と同じように。
お姉ちゃんとのツーショット写真が
置かれています。
「…どうかしら」
「…大丈夫。何とも思わないよ」
「そう。なら、完全に治ったみたいね」
「…うん」
私を迎えに来たあの日。あの時の行為を、
部長は『洗脳』と表現しました。
当時は信じられなかったけど、
今になればわかります。
確かにあれは、洗脳だったのでしょう。
目の前に置かれたお姉ちゃんの写真。
初めてそれを見せられた時、
私は即座に破り捨てようとしました。
『…駄目よ』
それを、部長の手に止められて。
何度も何度も謝られて。
それを繰り返すうちに、少しずつ。
少しずつ、お姉ちゃんへの愛情が戻ってきたんです。
「ごめんね。本当にどうかしてた」
「そうだね。でも、それはお互い様だよ」
申し訳なさそうに頭を下げる部長。
この数年で、もう何回その姿を目にしたでしょうか。
その度に、胸がぎゅっと締め付けられます。
だって、部長が狂ってしまったのは。
そもそも私のせいなんですから。
『貴女が、私を捨てて逃げようとしたから』
結局は、私が部長をないがしろにした事が原因。
一番悪いのは私なんです。
でも、部長の考えは違うみたいでした。
「じゃあここからは宮永さんにバトンタッチするわ。
今まで、本当にごめんなさい」
部長が席を立とうとします。
そのまま私に背を向けます。
酷く小さく見えました。
その背中を見て直感します。
――今度は部長の方が、
私を捨てて逃げようとしてる
もっとも、そんな事は許しませんけれど。
だってあの日。罪の意識に潰されて、
一度はお姉ちゃんを諦めようとした私を。
叱咤してくれたのは部長じゃないですか。
だから今度は、私が部長に怒る番。
「…私の前から姿を消すの?」
「一緒に居ちゃ駄目なのよ。
またいつ貴女を壊しちゃうかわからないもの」
「思い出してよ。そりゃ、
洗脳はあったかもしれないけど。
そもそも私、洗脳を受ける前に
一回決断してるんだよ?」
「未来の全部と、部長を天秤に掛けて。
それでも、部長を選ぶって」
確かにそれは、思考力が鈍った中での
決断だったかもしれません。
そう答える様に誘導されたのかもしれません。
それでも、私は決断したんです。
この人と引き換えなら、全てを犠牲にしてもいいと。
その気持ちは、今でも変わりがないんです。
「なのに部長は責任取ってくれないの?
もう、私と家族になんてなりたくない?」
「そんなわけ…ないでしょ……!」
「だったら何も問題ないよ。
ていうか私、部長に傷ものにされてるんだよ?
そっちの方が大問題だよ」
「責任取って、竹井咲にして?」
部長は私の言葉に面食らったようでした。
そして左右に目を泳がせると、
見当違いの事を口走ります。
「…お姉さんが許してくれるとは思えないけど」
「もう!お姉ちゃんの事なんか知らないよ!」
「咲、洗脳解けてないんじゃない?」
「今のは普通の話でしょ!?
結婚の話にお姉ちゃんなんか関係ないよ!」
「……」
「ぷっ」
「あははははっ」
ひとしきり二人で笑って。
そして、少しの沈黙が流れます。
部長は私の目を正面から見つめます。
私も部長を見つめ返しました。
その目はかすかに潤んでいました。
「…本当に、いいの?」
「うん」
「私を、竹井家の家族にしてください」
私の言葉を受けた部長は、両目に涙を溜めながら。
私を固く抱き寄せて、そっと唇を重ねたんです。
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私は一人ぼっちだった。
血を分けた両親にすら捨てられて、
家族と呼べる存在はいなくなった。
たくさんの人に囲まれて、
へらへら笑顔を繕いながら。
陰ではいつも泣いていた。
何の気なしに隣を見たら、
同じように泣きじゃくる子がいた。
その子はまだ助かりそうだった。
――せめて、この子は救われて欲しい
別に報われなくていい。そう思ってた。
幸せになった貴女を見つめる事ができるだけで、
私も幸せになれると思った。
だから私は手を差し伸べた。
(…それが、どうして
こんな結末になったのでしょうね?)
幸せにすると誓ったはずの相手。
私はそんな相手の心を醜く捻じ曲げ、
最愛の人を殺させようとした。
あげく、最後の最後で手の平返し。
結果、あの子の心は崩れ去り。
大切な青春の日々を奪い去った。
(…それが、どうして
こんな結末になったのでしょうね?)
犯した罪が消える事はない。
私は一生、この罪悪感を
背負って生きていくのだろう。
それでも。
目の前には、ウェディングドレスに
身を包んだ咲が居る。
新婦側の来賓席には、照の姿も伺える。
私は確かに間違えた。
でも、二人は私を許してくれた。
責任を取れと言ってくれた。
私が一番欲しかったものを与えてくれた。
そう、それは『家族』という名の絆。
輝くベールに包まれて、咲が優しく微笑む。
ベールをそっとめくりあげると、
咲の唇を指でなぞった。
(…本当に…どうして……)
(こんな結末になったのでしょうね?)
涙が零れ落ちそうになる。
必死でそれを押し留める。
取り返しのつかない罪を犯した。
許されるはずがないと思った。
それでも、この子は…私のそばにいてくれる。
なら私のする事は一つ。
今度はもう、絶対に間違えない。
瞳を閉じて、咲の唇にキスを落とす。
瞼を上げると、涙で目を輝かせる咲が居た。
「…幸せにしてくださいね?」
「誓うわ…貴女を、絶対に幸せにして見せる」
そして今日、私に家族ができた。
たった一人の、かけがえのない家族が。
(完)
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ここまでのハッピーエンドになると思っていなかったので驚きましたし感動しました。
今後とも頑張ってください!
うらやましいです!
照は菫さんに貰われて下さい。
寒くなってきておりますが、お体に気をつけて
非常にすばらでした!
どんな結末を書いてくれるのかと楽しみにしていましたが、まさか竹井咲という家族を得るだなんて。ハッピーエンドにぐっさりと刺さりました。正直バッドエンドというか後味悪いものを書いてくれるのかと(そっちも期待ですが)管理人さんにリクエストして良かったです。本当にありがとうございました。
すごい!
だからこそハッピイエンド(こんな結末)に繋がるラストに泣けました
素晴らしいです!これからも頑張ってください!!