現在リクエスト消化中です。リクエスト状況はこちら。
【咲-Saki-SS:菫照】菫「何気ないこの日常は、未来の私が願う奇跡」【あまあま】【ほのぼの】
<あらすじ>
同棲する菫照の何気ない朝食のひと時。
取り立てて語る事のない日常は、
でもかつての彼女が手を伸ばしても
届かないと考えた奇跡だった。
なんて、あまったるいほのぼの夫婦な菫照です。
<登場人物>
弘世菫,宮永照,戒能良子,大星淡
<症状>
<その他>
ある菫照好きの方に贈った作品です。
特に病んでないのでご注意を。
--------------------------------------------------------
酷く苦しい夢を見た。仔細は思い出せないが、
暑さにあえいでいたのを覚えている。
体を起こすと全身が酷く汗ばんでいて、
汗を吸ったパジャマがぺったりとくっついて気持ち悪い。
(梅雨だからな……明日は1度温度を下げるか)
なんて事を思いながら不意に視線を横にずらすと、
一匹の大きなネコが丸まっていた。
ああ、悪夢の原因はこいつか。
ネコの名前は宮永照。白糸台高校の元エースで、
日本が誇る雀士の一人だ。
白糸台で私と共に三連覇を成し遂げた後、
プロの勧誘を盛大に蹴って大学に進学した。
高校でも3年間一緒に居続けたというのに、
まさか大学でも一緒になるとは。
挙句、こうして二人暮らしする事になるなんて、
半年前には想像すらできなかった。
親にあてがわれた豪奢なマンション、2LDK南向きの一室。
がらんどうの部屋を持て余していた時に、
ある日照が押し掛けて来て。
『この部屋、一人で住むには広過ぎない?』
なんて言葉を発するものだから、その日のうちに
ルームシェアする事に決まってしまった。
せっかく二部屋あるのだから、それぞれに個室を割り当てた。
なのにこいつときたら、こんな感じで勝手に夜中、
私のベッドに潜り込んできたりする。
初めてこの現象に出くわした時は、
真夜中だと言うのに驚いて大声をあげてしまった。
防音が効いた部屋でよかったとつくづく思う、
さもなくば通報されていたかもしれない。
そんな事件も今は昔。いまや、横に突然照が現れても
『またか』で済ませるくらいには、
私の生活はこいつに侵食されてしまっている。
「おい照、起きろ。もう朝だぞ」
「ん」
「いや。言ったそばから布団に潜るな」
「まだこーひーのにおいがしない。
あさごはんができたらおよびください」
ぐいぐい引っ張る私をものともせず、
どんどん布団に埋もれていく照。
あわれ、私の布団に照臭が染みついていく。
まあどうせ洗濯するのだが。
「私をここから出すにはもーにんぐせっとがひつようです」
「こいつ……っ」
元々級友だからこいつの性質はある程度把握していたが、
二人暮らししてから改めて思い知らされた。
こいつ、気を許した奴には結構図々しいのだ。
完全に巣にこもった照にため息をつきながら、
一人身を起こして洗面所へと向かう。
冷たい水を勢いよく顔に叩き込み、
青いコップを手に取って何度かうがい。
よし、ようやく覚醒だ、脳が回転し始める。
蛇口をひねって水を止め、使ったコップを台に戻す。
自然ともう一つのコップが目に入った。
私の青と対照的な赤のコップ。
『まるで夫婦だな』なんて微笑むあたり、
どうやら覚醒には程遠いようだった。
さて朝食は何にしようか。
照のせいで思うように寝られなかったし、
今日は軽めに済ませてしまおう。
確か卵が余っていたな、
そうだ。スクランブルエッグにしよう。
卵、牛乳をよくかき混ぜる。卵4個に牛乳を大匙2杯。
その間フライパンにバターを入れて中火で溶かしておく。
隠し味に砂糖を少々、そのまま生地をフライパンへ。
後はバターと生地を混ぜながら、半熟になるまで火を通す。
隙間にウィンナーでも置けば完璧だ。
所要時間たったの5分。
スクランブルエッグは忙しい女の強い味方だ。
そういえば、最近は何も考えず砂糖を
手に取るようになった。
これも侵略による被害というべきだろうか。
昔はスクランブルエッグと言えば塩と胡椒だったのに、
だんだん洗脳されつつあって恐ろしい。
「さて、次はコーヒーか」
コーヒーは出来合いだ。ネスプレッソのコーヒーマシンに
カプセルを投入してボタンを押せば、
深煎りの香りが部屋全体に広がっていく。
お手軽にもほどがあり過ぎるが、これが意外と悪くない。
後はトースターにパンをセットしてスイッチオン。
時間は3分。こうしておけば、ちょうど照が洗面所から出る頃に
軽やかな音色でさえずるだろう。
「おい照、ごはんできたぞ」
「ん」
二度目の「ん」をいただくも、照は巣から這い出てこない。
まだ何か足りないのか?これ以上何がお望みだ。
なんて少しだけ眉をひそめると、
照は少しだけ唇を尖らせてあごを突き出した。
「ん」
ああ、そういう事か。……って。
「寝起きのキスなんて所望するな。
蠢くばい菌の数を考えたら卒倒したくなる」
「知ってるよ。だから今して欲しいの」
「穢れた私も愛してください、か?
随分いい趣味を持ってるな」
「そんな私を飼ってる菫もね」
どうやらこのネコ、徹底抗戦の構えのようだ。
仕方ない、人間様が折れてやろう。
膝を折ってベッドに顔を寄せ、
布団から顔を出しているワガママなお姫様に
ちゅ、と触れるだけのキスを落とす。
「んんっ!?」
と同時に、照の両腕がぐわりと私の体をつかみ、
唇が、今まさに離れようとしていた私の唇を咥えこむ。
そのまま強引に唇を押し広げ、ぬるりと舌を差し込んで。
無理矢理、私の咥内を蹂躙した。
「んっ、んんっ……んっ」
寝起きだからか、照の舌は妙に熱い。
それは体も同じ事。照から伝わる熱が一気に私に浸透して、
じわりじわりと汗ばんでいく。
熱は思考を麻痺させる。呼吸が散漫になったのも手伝って、
頭がぼんやり痺れてくる。
気づけば私はいつの間にか照に組み付いて、
一心不乱に舌を絡ませていた。
「んっ……ぷはっ」
二人の肌が汗でしっとりし始めた頃。
照はようやく満足したのか、私の口を解放する。
私は二人の間に掛かる糸の橋を強引に指で切り裂いた後、
肩で息をしながら悪態をついた。
「くそっ、汚染された。お前のせいでうがいし直しだ」
「殺しちゃうんだ?メイドオブ宮永照なのに」
「宮永照プレゼンツは割と体に悪いからな。
ほら、照菌を排出しに行くぞ」
二人で洗面所に足を運んで、
それぞれ青と赤のコップを手に取ってうがいする。
戻って来た時にはトースターは無言。
すっかり熱が冷めたトーストは、
寄り添ってくるバターを溶かす気もないようだった。
「私の完璧な計画が」
「キスする時間を考慮しない時点で欠陥ありだよ。
完璧にはほど遠い」
次からは5分遅延するようにタイマーを仕掛けておこう。
なんて考えてしまう私は、
照に勝つ事はできないのかもしれない。
ああ駄目だ、コーヒーも冷めてしまっているじゃないか。
嘆息しながらカップをレンジに叩き込む。
「レンジにかけると味のエッジが取れるから嫌なんだがな」
「私は好きだよ。まろやかになって甘さが際立つ気がする」
「それが嫌なんだよ」
「菫は甘い物苦手だもんね」
「本当はスクランブルエッグも
塩コショウがいいんだけどな」
「そんな事したら実家に帰らせていただきます」
「というか宮永家の食卓は糖分摂り過ぎだろ。
将来の事を思えば、むしろ弘世色に染めた方が
いいと思うんだが」
生活習慣病は老若男女問わず平等に両手を広げて待っている。
後はそう、体重計を思いやる気持ちも重要だろう。
なんて理想を声高に叫んでみても、この城が宮永家に
制圧されつつある事実に変わりはないのだが。
座して待つ事数十秒。
再び湯気をたて始めたコーヒーをレンジから取り出すと、
二人して手を合わせて声を上げる。
「「いただきます」」
さあ遅めの朝食だ。
スクランブルエッグを一つかみして口に放り込むと、
口の中一杯に優しい甘さが広がった。
これはこれで悪くない、そう思い始めた自分が若干怖い。
「なんだか、自分が作り変えられていく気分だ」
「スクランブルエッグ一つで大げさ過ぎる」
侵食する側だからそう言えるのだ。
なんて一言捨て吐いて、甘さをコーヒーで中和する。
深煎りにローストされた豆の香りが鼻腔を通り抜けるも、
やはり味の鋭さは失われてしまっていた。
「お互い様だと思うけど。私だって、
ここに来るまではコーヒーなんて
人間の飲むものじゃないって思ってたよ」
「なのに、今じゃコーヒーの香りがないと
朝目覚めた気がしない」
「お前の飲んでるそれはカフェラテだがな。
それもお砂糖たっぷりの。
もはやコーヒー牛乳と呼んでも過言じゃない」
「実家に帰らせていただきます」
「咲ちゃんにもコーヒー薦めといたから、
実家に帰ってもコーヒーからは逃れられないぞ」
「やっぱり侵略してるのは弘世家じゃない」
「嫌か?」
「別に。というか嫌がってるのは菫でしょ」
「……まあな」
口が重くなり沈黙を纏う。状況を打開する気にもなれず、
黙々と食事を口に運び続けた。
不意に顔を見せそうになる鬱屈した感情を押し込めながら。
嫌がっている?違うな。私はただ恐れてるんだ。
私は当然知っている。私達が送るこの日常は、
未来の私がどれだけ必死に手を伸ばしても、
決して手に入れられない奇跡である事を。
かつて、日本を背負って立つ雀士宮永照が、
級友と同じ大学に通うためだけにプロを蹴った時。
記者は皆驚いて、次にこう聞いてマイクを向けた。
『では、大学卒業後はどうするおつもりでしょうか』
当然の質問だった。私だって同じ事を聞くだろう。
それに対する照の返事はこうだ。
『今はまだ考えていません』
照は答えを保留した。だがどのような答えであれ、
私と離れる道である事は間違いないだろう。
プロ雀士か一般企業に就職か。
どちらにせよ、私とは袂(たもと)を分かつ事になる。
私は親が決めた相手と結婚するだろうから。
つまりこの生活は、いずれ迎える絶望を覚悟するための
モラトリアム(猶予期間)に過ぎないのだ。
いつか必ず、この生活は終わりを告げる。
だとすれば宮永家の侵略を許すわけにはいかない。
生活の。心の何割かを奪われてしまってからでは遅い。
「また余計な事考えてるね」
「わかるのか?」
「わかるよ。菫が私の事をわかるように、
私にも菫の仏頂面が意外と起伏に富んでいる事はわかる」
「いい挑発だ。ならピタリと当ててみろ」
「私に溺れるのが怖いんでしょ。
いずれ失うかもしれないからって」
「……っ」
本当にピタリと当ててきた。もしかして鏡を使われたか?
それとも、そんな小細工すら必要ないほど、
わかりやすく怯えていたのかもしれない。
ただ、あえて部分点を差し引くならば。
「かもしれない、じゃなくて確定だがな」
今度は照が口をつぐむ。穏やかな朝の食卓に、
重苦しい雰囲気が満ち満ちていく。
ああしまった、こんなはずじゃなかったんだ。
一体どこで間違えた?決まってる。
この生活の終わりに思いを馳せた事だ。
せっかくのモラトリアムなのだから、
何も考えるべきではなかった。
自己嫌悪の沼に沈みかけたその瞬間、
照の声が私を現実に引き戻した。
「菫。私、この前の事件で一つ学んだ事があるんだ」
いつも通り抑揚のない声。でも声以上に眼差しが物を語っていた。
強く、私を貫くような視線。正面から受け止める事ができず、
目をそらしながら続きを促す。
「……なんだ」
「絶対にもうどうしようもない、そう思える事であっても。
意外と何とかなるって事」
「強く願えば。追い続ければ。
諦めなければ、掴める未来がきっとある」
「私にそれを教えてくれたのは……菫、貴女なんだよ」
思い当たる節がなくもなかった。麻雀が繋いだ家族の絆。
2年と4カ月の月日を経て結実したそれは、
あの日照が諦めていたら成しえなかったもので。
それを促したのは私だと、そういう見方もできるだろう。
「だから私は諦めない。菫が名家のお嬢様で、
いずれは弘世家を継がなくちゃいけないんだとしても。
誰かと結婚して、子を為さなくちゃいけないとしても」
「それでも私は、菫と一緒に幸せになる道を見つけてみせる」
「だから、菫は安心して私に溺れて。
私に溺れて、私が居ないと駄目になって」
「そして、私の事も作り変えて欲しい」
そう言うと照は微笑んで、
甘いスクランブルエッグをパクついた。
ああ。やっぱりこいつには叶わない。
今私達が送るこの日常は、
照が起こした奇跡の上で成り立っている。
奇跡と、偶然と、スパイスにほんのちょっぴりの勇気を混ぜて、
私達の生活は成り立っている。
そうだ、今この状態がすでに奇跡なんだ。
だったらもう少し頑張って、奇跡を継続すればいい。
私達が結婚する頃には、iPS細胞による子作りが
実現しているかもしれないし、
それが駄目でも養子と言う手だってある。
最悪、弘世家を捨てて逃げてもいいのだ。
照の言うとおりだ。
諦めさえしなければ、可能性は広がっている。
ならば、いっそ思い切り溺れてしまおうか。
溺れて、溺れさせて、侵食されて、侵食して。
もう離れられないほど一つになってしまえばいい。
一人そう結論付けると、甘いスクランブルエッグを口に運ぶ。
冷えた卵はより甘ったるく感じたけれど、
その微妙さが照っぽくて悪くはなかった。
「甘いスクランブルエッグも悪くはないな」
「でしょ」
とはいえ。そういう事ならこちらも遠慮はしない。
弘世家に嫁ぐ事になる以上、
弘世家の流儀も身につけてもらわなければ。
「ところで、今夜はすき焼きにする予定なんだが、
砂糖少なめにしていいか?」
「実家に帰らせていただきます」
国交断絶。弘世家と宮永家の争いは、まだまだ当分続きそうだ。
(完)
同棲する菫照の何気ない朝食のひと時。
取り立てて語る事のない日常は、
でもかつての彼女が手を伸ばしても
届かないと考えた奇跡だった。
なんて、あまったるいほのぼの夫婦な菫照です。
<登場人物>
弘世菫,宮永照,戒能良子,大星淡
<症状>
<その他>
ある菫照好きの方に贈った作品です。
特に病んでないのでご注意を。
--------------------------------------------------------
酷く苦しい夢を見た。仔細は思い出せないが、
暑さにあえいでいたのを覚えている。
体を起こすと全身が酷く汗ばんでいて、
汗を吸ったパジャマがぺったりとくっついて気持ち悪い。
(梅雨だからな……明日は1度温度を下げるか)
なんて事を思いながら不意に視線を横にずらすと、
一匹の大きなネコが丸まっていた。
ああ、悪夢の原因はこいつか。
ネコの名前は宮永照。白糸台高校の元エースで、
日本が誇る雀士の一人だ。
白糸台で私と共に三連覇を成し遂げた後、
プロの勧誘を盛大に蹴って大学に進学した。
高校でも3年間一緒に居続けたというのに、
まさか大学でも一緒になるとは。
挙句、こうして二人暮らしする事になるなんて、
半年前には想像すらできなかった。
親にあてがわれた豪奢なマンション、2LDK南向きの一室。
がらんどうの部屋を持て余していた時に、
ある日照が押し掛けて来て。
『この部屋、一人で住むには広過ぎない?』
なんて言葉を発するものだから、その日のうちに
ルームシェアする事に決まってしまった。
せっかく二部屋あるのだから、それぞれに個室を割り当てた。
なのにこいつときたら、こんな感じで勝手に夜中、
私のベッドに潜り込んできたりする。
初めてこの現象に出くわした時は、
真夜中だと言うのに驚いて大声をあげてしまった。
防音が効いた部屋でよかったとつくづく思う、
さもなくば通報されていたかもしれない。
そんな事件も今は昔。いまや、横に突然照が現れても
『またか』で済ませるくらいには、
私の生活はこいつに侵食されてしまっている。
「おい照、起きろ。もう朝だぞ」
「ん」
「いや。言ったそばから布団に潜るな」
「まだこーひーのにおいがしない。
あさごはんができたらおよびください」
ぐいぐい引っ張る私をものともせず、
どんどん布団に埋もれていく照。
あわれ、私の布団に照臭が染みついていく。
まあどうせ洗濯するのだが。
「私をここから出すにはもーにんぐせっとがひつようです」
「こいつ……っ」
元々級友だからこいつの性質はある程度把握していたが、
二人暮らししてから改めて思い知らされた。
こいつ、気を許した奴には結構図々しいのだ。
完全に巣にこもった照にため息をつきながら、
一人身を起こして洗面所へと向かう。
冷たい水を勢いよく顔に叩き込み、
青いコップを手に取って何度かうがい。
よし、ようやく覚醒だ、脳が回転し始める。
蛇口をひねって水を止め、使ったコップを台に戻す。
自然ともう一つのコップが目に入った。
私の青と対照的な赤のコップ。
『まるで夫婦だな』なんて微笑むあたり、
どうやら覚醒には程遠いようだった。
さて朝食は何にしようか。
照のせいで思うように寝られなかったし、
今日は軽めに済ませてしまおう。
確か卵が余っていたな、
そうだ。スクランブルエッグにしよう。
卵、牛乳をよくかき混ぜる。卵4個に牛乳を大匙2杯。
その間フライパンにバターを入れて中火で溶かしておく。
隠し味に砂糖を少々、そのまま生地をフライパンへ。
後はバターと生地を混ぜながら、半熟になるまで火を通す。
隙間にウィンナーでも置けば完璧だ。
所要時間たったの5分。
スクランブルエッグは忙しい女の強い味方だ。
そういえば、最近は何も考えず砂糖を
手に取るようになった。
これも侵略による被害というべきだろうか。
昔はスクランブルエッグと言えば塩と胡椒だったのに、
だんだん洗脳されつつあって恐ろしい。
「さて、次はコーヒーか」
コーヒーは出来合いだ。ネスプレッソのコーヒーマシンに
カプセルを投入してボタンを押せば、
深煎りの香りが部屋全体に広がっていく。
お手軽にもほどがあり過ぎるが、これが意外と悪くない。
後はトースターにパンをセットしてスイッチオン。
時間は3分。こうしておけば、ちょうど照が洗面所から出る頃に
軽やかな音色でさえずるだろう。
「おい照、ごはんできたぞ」
「ん」
二度目の「ん」をいただくも、照は巣から這い出てこない。
まだ何か足りないのか?これ以上何がお望みだ。
なんて少しだけ眉をひそめると、
照は少しだけ唇を尖らせてあごを突き出した。
「ん」
ああ、そういう事か。……って。
「寝起きのキスなんて所望するな。
蠢くばい菌の数を考えたら卒倒したくなる」
「知ってるよ。だから今して欲しいの」
「穢れた私も愛してください、か?
随分いい趣味を持ってるな」
「そんな私を飼ってる菫もね」
どうやらこのネコ、徹底抗戦の構えのようだ。
仕方ない、人間様が折れてやろう。
膝を折ってベッドに顔を寄せ、
布団から顔を出しているワガママなお姫様に
ちゅ、と触れるだけのキスを落とす。
「んんっ!?」
と同時に、照の両腕がぐわりと私の体をつかみ、
唇が、今まさに離れようとしていた私の唇を咥えこむ。
そのまま強引に唇を押し広げ、ぬるりと舌を差し込んで。
無理矢理、私の咥内を蹂躙した。
「んっ、んんっ……んっ」
寝起きだからか、照の舌は妙に熱い。
それは体も同じ事。照から伝わる熱が一気に私に浸透して、
じわりじわりと汗ばんでいく。
熱は思考を麻痺させる。呼吸が散漫になったのも手伝って、
頭がぼんやり痺れてくる。
気づけば私はいつの間にか照に組み付いて、
一心不乱に舌を絡ませていた。
「んっ……ぷはっ」
二人の肌が汗でしっとりし始めた頃。
照はようやく満足したのか、私の口を解放する。
私は二人の間に掛かる糸の橋を強引に指で切り裂いた後、
肩で息をしながら悪態をついた。
「くそっ、汚染された。お前のせいでうがいし直しだ」
「殺しちゃうんだ?メイドオブ宮永照なのに」
「宮永照プレゼンツは割と体に悪いからな。
ほら、照菌を排出しに行くぞ」
二人で洗面所に足を運んで、
それぞれ青と赤のコップを手に取ってうがいする。
戻って来た時にはトースターは無言。
すっかり熱が冷めたトーストは、
寄り添ってくるバターを溶かす気もないようだった。
「私の完璧な計画が」
「キスする時間を考慮しない時点で欠陥ありだよ。
完璧にはほど遠い」
次からは5分遅延するようにタイマーを仕掛けておこう。
なんて考えてしまう私は、
照に勝つ事はできないのかもしれない。
ああ駄目だ、コーヒーも冷めてしまっているじゃないか。
嘆息しながらカップをレンジに叩き込む。
「レンジにかけると味のエッジが取れるから嫌なんだがな」
「私は好きだよ。まろやかになって甘さが際立つ気がする」
「それが嫌なんだよ」
「菫は甘い物苦手だもんね」
「本当はスクランブルエッグも
塩コショウがいいんだけどな」
「そんな事したら実家に帰らせていただきます」
「というか宮永家の食卓は糖分摂り過ぎだろ。
将来の事を思えば、むしろ弘世色に染めた方が
いいと思うんだが」
生活習慣病は老若男女問わず平等に両手を広げて待っている。
後はそう、体重計を思いやる気持ちも重要だろう。
なんて理想を声高に叫んでみても、この城が宮永家に
制圧されつつある事実に変わりはないのだが。
座して待つ事数十秒。
再び湯気をたて始めたコーヒーをレンジから取り出すと、
二人して手を合わせて声を上げる。
「「いただきます」」
さあ遅めの朝食だ。
スクランブルエッグを一つかみして口に放り込むと、
口の中一杯に優しい甘さが広がった。
これはこれで悪くない、そう思い始めた自分が若干怖い。
「なんだか、自分が作り変えられていく気分だ」
「スクランブルエッグ一つで大げさ過ぎる」
侵食する側だからそう言えるのだ。
なんて一言捨て吐いて、甘さをコーヒーで中和する。
深煎りにローストされた豆の香りが鼻腔を通り抜けるも、
やはり味の鋭さは失われてしまっていた。
「お互い様だと思うけど。私だって、
ここに来るまではコーヒーなんて
人間の飲むものじゃないって思ってたよ」
「なのに、今じゃコーヒーの香りがないと
朝目覚めた気がしない」
「お前の飲んでるそれはカフェラテだがな。
それもお砂糖たっぷりの。
もはやコーヒー牛乳と呼んでも過言じゃない」
「実家に帰らせていただきます」
「咲ちゃんにもコーヒー薦めといたから、
実家に帰ってもコーヒーからは逃れられないぞ」
「やっぱり侵略してるのは弘世家じゃない」
「嫌か?」
「別に。というか嫌がってるのは菫でしょ」
「……まあな」
口が重くなり沈黙を纏う。状況を打開する気にもなれず、
黙々と食事を口に運び続けた。
不意に顔を見せそうになる鬱屈した感情を押し込めながら。
嫌がっている?違うな。私はただ恐れてるんだ。
私は当然知っている。私達が送るこの日常は、
未来の私がどれだけ必死に手を伸ばしても、
決して手に入れられない奇跡である事を。
かつて、日本を背負って立つ雀士宮永照が、
級友と同じ大学に通うためだけにプロを蹴った時。
記者は皆驚いて、次にこう聞いてマイクを向けた。
『では、大学卒業後はどうするおつもりでしょうか』
当然の質問だった。私だって同じ事を聞くだろう。
それに対する照の返事はこうだ。
『今はまだ考えていません』
照は答えを保留した。だがどのような答えであれ、
私と離れる道である事は間違いないだろう。
プロ雀士か一般企業に就職か。
どちらにせよ、私とは袂(たもと)を分かつ事になる。
私は親が決めた相手と結婚するだろうから。
つまりこの生活は、いずれ迎える絶望を覚悟するための
モラトリアム(猶予期間)に過ぎないのだ。
いつか必ず、この生活は終わりを告げる。
だとすれば宮永家の侵略を許すわけにはいかない。
生活の。心の何割かを奪われてしまってからでは遅い。
「また余計な事考えてるね」
「わかるのか?」
「わかるよ。菫が私の事をわかるように、
私にも菫の仏頂面が意外と起伏に富んでいる事はわかる」
「いい挑発だ。ならピタリと当ててみろ」
「私に溺れるのが怖いんでしょ。
いずれ失うかもしれないからって」
「……っ」
本当にピタリと当ててきた。もしかして鏡を使われたか?
それとも、そんな小細工すら必要ないほど、
わかりやすく怯えていたのかもしれない。
ただ、あえて部分点を差し引くならば。
「かもしれない、じゃなくて確定だがな」
今度は照が口をつぐむ。穏やかな朝の食卓に、
重苦しい雰囲気が満ち満ちていく。
ああしまった、こんなはずじゃなかったんだ。
一体どこで間違えた?決まってる。
この生活の終わりに思いを馳せた事だ。
せっかくのモラトリアムなのだから、
何も考えるべきではなかった。
自己嫌悪の沼に沈みかけたその瞬間、
照の声が私を現実に引き戻した。
「菫。私、この前の事件で一つ学んだ事があるんだ」
いつも通り抑揚のない声。でも声以上に眼差しが物を語っていた。
強く、私を貫くような視線。正面から受け止める事ができず、
目をそらしながら続きを促す。
「……なんだ」
「絶対にもうどうしようもない、そう思える事であっても。
意外と何とかなるって事」
「強く願えば。追い続ければ。
諦めなければ、掴める未来がきっとある」
「私にそれを教えてくれたのは……菫、貴女なんだよ」
思い当たる節がなくもなかった。麻雀が繋いだ家族の絆。
2年と4カ月の月日を経て結実したそれは、
あの日照が諦めていたら成しえなかったもので。
それを促したのは私だと、そういう見方もできるだろう。
「だから私は諦めない。菫が名家のお嬢様で、
いずれは弘世家を継がなくちゃいけないんだとしても。
誰かと結婚して、子を為さなくちゃいけないとしても」
「それでも私は、菫と一緒に幸せになる道を見つけてみせる」
「だから、菫は安心して私に溺れて。
私に溺れて、私が居ないと駄目になって」
「そして、私の事も作り変えて欲しい」
そう言うと照は微笑んで、
甘いスクランブルエッグをパクついた。
ああ。やっぱりこいつには叶わない。
今私達が送るこの日常は、
照が起こした奇跡の上で成り立っている。
奇跡と、偶然と、スパイスにほんのちょっぴりの勇気を混ぜて、
私達の生活は成り立っている。
そうだ、今この状態がすでに奇跡なんだ。
だったらもう少し頑張って、奇跡を継続すればいい。
私達が結婚する頃には、iPS細胞による子作りが
実現しているかもしれないし、
それが駄目でも養子と言う手だってある。
最悪、弘世家を捨てて逃げてもいいのだ。
照の言うとおりだ。
諦めさえしなければ、可能性は広がっている。
ならば、いっそ思い切り溺れてしまおうか。
溺れて、溺れさせて、侵食されて、侵食して。
もう離れられないほど一つになってしまえばいい。
一人そう結論付けると、甘いスクランブルエッグを口に運ぶ。
冷えた卵はより甘ったるく感じたけれど、
その微妙さが照っぽくて悪くはなかった。
「甘いスクランブルエッグも悪くはないな」
「でしょ」
とはいえ。そういう事ならこちらも遠慮はしない。
弘世家に嫁ぐ事になる以上、
弘世家の流儀も身につけてもらわなければ。
「ところで、今夜はすき焼きにする予定なんだが、
砂糖少なめにしていいか?」
「実家に帰らせていただきます」
国交断絶。弘世家と宮永家の争いは、まだまだ当分続きそうだ。
(完)
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/183603317
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/183603317
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック
こういう朝のまったりとした空気感が良いですねー。なし崩しにされる菫さんがとてもかわいかったです
戒能プロとあわあわさんいつ登場したの…?
というかすごくほのぼの……。
狂気の中に潜むほのぼの。
ほのぼの…?>
照「これ以上ないくらいほのぼの」
菫「朝のワンシーンだけで終わるとか
このブログとしては初めてじゃないか?」
この2人には絶対幸せになって欲しい>
照「原作では菫がカギを握っている」
菫「お前は頼りにならないからな」
照「わかってるなら頑張って」
照臭・照臭>
照「臭いみたいに言うのやめて欲しい」
菫「私はお前みたいに
においフェチじゃないんだよ」