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【咲-Saki-SS:咲久】 『七人の竹井久』【狂気】【共依存】
<あらすじ>
その他のリクエストがそのままあらすじです。
<登場人物>
竹井久,宮永咲,その他
<症状>
・解離性同一性障害
・狂気
・共依存
・異常行動(自殺)
<その他>
・以下のリクエストの対するSSです。
カップリングは久咲で、症状は解離性同一性障害(久)。
久と同棲を始めた咲が、その生活のなかで
様々な「久」を見つけていき、
そのすべてを例外なく愛するという感じ
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『それ』を初めて聞かされたのは、
『部長』とルームシェアを始めた初日の事だった。
「ねえ咲。貴女は『解離性同一障害』って知ってる?」
私こと宮永咲は、高校を卒業後、部長と同じ大学に進学した。
そこでも『部長』をやっていた彼女の提案で、
家賃を折半する事になったのだ。
3年間の親交を経て、彼女と親しくなっていた私は、
その提案を二つ返事で受け入れた。
自分の荷物を運びこみ、あらかた片付きほっと一息。
『さあこれから新生活だ』、そう意気込んだ矢先の事だった。
「えーと……心と体の性別が一致しない人ですっけ」
「あー、それは『性同一性障害』の方ね。
そうやってごっちゃになりやすいからか、
最近では『性別違和』って呼ばれてるけど」
「あ、そうなんですか。じゃあ、ちょっとわからないです」
「そっか。まあ、いわゆる『多重人格障害』よ」
「ああ、そうなんですね」
曖昧に相槌を打ちつつも、疑問符が頭の片隅をかすめた。
なんでわざわざ『いわゆる』なんて、
補足説明が必要な名前にしたんだろう。
最初から『多重人格』では駄目なのだろうか。
「その、多重人格障害がどうかしたんですか?」
「うん。これからは咲と一緒に生活していくんだし、
この事は伝えておく必要があると思ってね」
「実は私、その『解離性同一性障害』って奴なのよ」
「は、はぁ……?」
一瞬、『またからかわれてるのかな?』と思った。
でも瞬時に思い直す。気づいたからだ。
部長の指は震えていた。
部長は今、恐怖と戦いながら話している。
「私の脳内には複数の人格が存在する。
どれも『竹井久』だけど、
それぞれ年齢も性格もバラバラ。
人当たりのいい子も居れば、
私自身消し去りたいと思う人格もいるわ。
そのせいで、貴女に迷惑をかけるかもしれない」
「……はぁ」
「だから。もし貴女にとって
気に入らないタイプの人格が出てきた時は……
大声で、『スポットから出て!』って叫んで欲しいの。
それでその子は退散するから」
「は、はぁ……」
我ながら、気の抜けた返事をし過ぎだと思った。
でも許して欲しい、まるで理解が追いつかないのだ。
話が飛躍し過ぎている。多重人格? 複数の『竹井久』?
そんな事、本当に起こりうるのだろうか。
部長との付き合いも、今年でもう4年目だ。
年齢が生む離別のせいで、距離が離れた事はある。
それでも、会えない間もSNSや電話で繋がり続けた。
何が言いたいかと言うと、『私達はかなり親密』という事だ。
少なくとも大学進学するにおいて、
ルームシェアを提案されるくらいには。
そしてこの3年の間、部長が『別人格になった』事は一度もない。
「ひた隠しにしてたのよ、咲に嫌われたくなかったから。
咲と話すのは『主人格の私』だけ。
他の『私』が咲に触れる事がないように気をつけてた」
「でもまぁ、一緒に暮らすとなるとちょっとね。
流石に隠しきれないと思うから」
寂し気な顔で微笑む部長、なおも指先は震えている。
正直私は気圧されていた。なんて重い告白だろう。
もはやそれは、『プロポーズ級』の重量を伴っていた。
『ちょっと持病がありますよ』、なんて軽い話ではない。
『私は精神を患った異常者です、貴女は私を嫌うでしょう。
それでも一緒に住みたいです、受け入れてくれますか?』
そういうレベルの懇願なのだ。
「……はい、私なら大丈夫です」
それでも迷う事なく頷く。むしろ支えたいと思った。
この、器用で不器用な弱い人を。
多重人格障害。どれほどつらい障害なのか、
今の私にはわからない。つまり『想像を絶する』わけだ。
それでもこの3年間、部長は病気を隠し続けた。
入念な準備と、異常なまでの精神力で。
私に迷惑を掛けまいと、『健康な竹井久』を
演じきって見せたのだ。
そんな人が、ようやく私に弱さを見せた。
この、『誰より弱さを見せる事を恐れる人』が。
奇妙な優越感すら覚える、私は確かに『選ばれた』のだ。
どんな部長でも受け入れよう。優しくこの手で包み込もう。
例え傷つけられたとしても、私は笑顔で抱き締めよう。
そんな決意を胸に秘め、私はさらに言葉を重ねる。
「何があっても、私は部長を見捨てませんから」
我ながら、吐いた言葉の強さに驚く。
案の定、部長は僅かに後ずさった。
信じてもらえなかっただろう、不信を抱いたかもしれない。
でも、今はそれで問題なかった。
だって本当なのだから。後は、行動で示すだけでいい。
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今現在、部長の中には複数の人格が存在する。
主人格は『現在20歳の竹井久』、私が『部長』と呼ぶ人だ。
基本的には彼女が肉体を操っている。
しかし、まれにひょいと別人格が姿を現す。
ちなみに人格間で記憶を共有する事はできないそうだ。
ゆえに部長は『交換ノート』を用意して、
複数の自分と情報共有を行っている。
「まあ、そんなに悪い子はいないと思うわ。
こちらの意図も理解して、基本的には
問題が起きないように動いてくれてるし」
部長はノートを指さした。その内容を見て驚く。
筆跡が見事にバラバラなのだ。私が知る筆跡は一つだけ、
達筆な字もあれば平仮名ばかりの文字もあった。
「ほら、例えばこの人。『28歳の竹井久』ね、
私は『お姉さん』なんて呼んでるわ。
私よりもずっと大人で、私にアドバイスをしてくれる。
この人が出たら『ラッキー』ね」
文字をなぞる部長の目はどこまでも好意的だ。
なるほど。多重人格だからと言って、
悪い事ばかりでもないらしい。でもだからこそ引っ掛かる。
「……あの。部長は、自分以外の人格と
意識や記憶を共有できないんですよね?」
「そうね。だから実際の人格がどうかはわからないわ。
ノートを見て想像するだけ」
「でも、大体の人は協力してくれてる」
「そうね」
「その、だとしたら……
『消し去りたいと思う人格』の人について、
どうしてそう思ったんですか?」
部長の顔から表情が消えた。わかっている、
これが『地雷』である事は。それでもこれはチャンスなのだ、
話しにくい事は今のタイミングで聞いておきたい。
「咲って案外ずばっと来るわね」
「いい加減学びましたから。
遠回しに聞いても隠されるだけだって」
「話したくないって言ったら?」
「それならそれでいいです。
部長が、私を信じてくれるまで待ちます」
部長は天井を見上げてため息。そしてガシガシ頭をかくと、
「降参」と呟いた後教えてくれた。
「交換ノートを使ってくれる子はいいのよ。
協力して生きて行こうっていう意思がある。
でも、明らかに使ってない子が最低一人はいるわ」
「どうしてわかるんですか?」
「時間が飛ぶからよ。意識が飛んで、我を取り戻す。
時間が数時間経過、ノートを見ても何も書いてない。
そして大体は……アクシデントが起きている」
「アクシデント、ですか」
流石に聞くべきか判断に迷った。
聞けば必ず、部長の古傷を抉る事になる。
その癖今更何もできない、覆水は盆に返らないからだ。
結局聞くのは諦めた。
「だから、覚えておいて。『スポットから出て!』
咲がそう叫んでくれれば、『私』が意識を取り戻す。
そいつを無理矢理スポットからどけて、
私が支配を取り戻すから」
「はい。あの、『スポット』って何ですか?」
「そのまんまよ、スポットライトみたいなもの。
私という肉体を操作するための操縦室と言ってもいい。
私達は暗い部屋で同居していて、
そのスポットに立った人格が肉体を支配するの」
「……同居人の素性はわからない状態で、ね」
ぞっと背筋が寒気で震えた。
こんな怖い『椅子取りゲーム』があっただろうか。
もしスポットを奪われて、ずっとそこに居座られたら、
殺されたも同然だ。
「大丈夫よ。基本、私が一番強いもの」
部長はけらけら笑って見せた。
それが虚構な事くらい、今の私には容易にわかる。
間違いない、部長はこの状態に強い恐怖を感じている。
当たり前だろう。いつ、
『自分が自分でなくなるかわからない』のだ。
普通に怖い、だから私はその手を握る。
「大丈夫です、私がそばにいますから」
部長は目を見開いた。そしてしばらく目を閉じて、
やがて満面の笑みで一言――。
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「おねえちゃん、だれ?」
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今度は私が目を見開いた。
こんなにいきなり切り替わるのか。
油断していた、心の準備ができてない。
とりあえず『赤の他人』として接するべきなのだろう。
そして、おそらく『幼児に話し掛ける』ように。
「ええとね、私は宮永咲。竹井久さんのお友達で、
一緒に住む事になってるの。貴女は誰?」
「わたしも ひさだよ!」
ピンときた。『ノート』に時折現れる平仮名の筆跡。
おそらくはこの子のものだろう、つまりこの子は『味方側』だ。
ノートを開く。
「そうなんだね。久ちゃんはこのノート知ってる?」
「しってる! みんなで にっきを かいてるんだよ!」
「えらいね。あ、ほらここ見て。20歳の久さんから伝言がある。
『宮永咲と一緒に暮らす。全員、彼女を大切にするように』って」
漢字には全部フリガナが振ってあった。
おそらくは、まだ幼い彼女への配慮だろう。
「ふへー。あ、じゃあじゃあ、
『さきおねえちゃん』ってよんでいい?」
「いいよ。じゃあ私は『久ちゃん』って呼ぶね」
「わーい! うれしいな! ひさ、
ずっとひとりぼっちだったから!」
ズクン、胃が一気に重さを増した。
天真爛漫で、人懐っこい性格の『久ちゃん』。
でもやっぱり彼女は『病気』から生まれた人格で、
どうしようもない闇を孕んでいる。
幼い彼女が持つ記憶、それはおそらく『事実』だろう。
部長はこんな小さな頃から、一人で恐怖と戦っていた。
その事実が悲しくて、悔しくて、
思わず『久ちゃん』を抱き締める。
「えっと……さきおねえちゃん?」
「ごめんね。少しだけ、こうさせて」
「……さきおねえちゃん、ないてるの?」
「うん。ちょっと悲しかったから」
「そうなんだ。じゃあ、ひさが『なでなで』してあげる!」
なんて強い子なのだろう。なんて悲しい子なのだろう。
誰より可哀そうなのは『久ちゃん』なのに、
それでも彼女は他人を守る。
多分気づいていないのだ、『自分が不幸だ』と言う事に。
だから『鈍い』。ああ、そうか、そういう事か――。
「久ちゃん。これからは、いっぱい出てきていいからね」
「へ? どーゆーこと?」
「悲しくなったら、辛くなったら、
私が抱き締めてあげるから。
『なでなで』もいっぱいしてあげる」
「えーと、よくわかんないけど わかった!」
『久ちゃん』は笑顔で頷いた。
きっとわかっていないのだろう、でもそれでいい。
私がわかっていればいい事だから。
今度は私が『久ちゃん』を『なでなで』する。
『久ちゃん』は嬉しそうに目を細めると、
やがて『スポット』から消えていった。
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『多重人格障害』は、そもそもなぜ起こるのか。
参考書籍を読み解きながら、私は答えを探し求める。
幸いすぐ見つかった。『24人のビリー・ミリガン』。
部長と同じく多重人格障害だった患者の半生を描いた作品で、
そこには明確な解答が記されていた。
「ま、そういう事ね。だから『私』から言わせれば、
解離性同一性障害は病気じゃないのよ。
『生き残るための防衛本能』ってわけ」
「主人格の竹井久が耐え切れない事象が発生した時、
それに対応できる人格が現れるのよ。
例えば私であれば『もっと大人の竹井久』ね。
『今の私じゃ無理だけど、大人の私なら耐えられるはず』、
おそらくそう言う考えで生み出されてる……残酷よね」
『久さん』は嘲る様に鼻で嗤うと、
優雅な手つきで紅茶のカップを傾けた。
この人は『28歳の竹井久』、確かに雰囲気が明らかに違う。
「えっと、皆さんって年は取るんですか?」
「私の場合は取らないわね。
与えられた役割によって違うのかもしれないわ。
例えば私は28歳。生まれたのは主人格が14の頃だから、
確かに相当大人でしょう。
……今じゃもう、8つしか違わないけどね」
「じゃあ、久ちゃんもずっと6歳のままなんですか?」
「そうよ。その方が『痛みに強い』でしょう?」
胸がぎゅうと締め付けられる。ああ、やっぱりそうだった。
『久ちゃん』の担当は、『苦痛』。
後は『甘えたい』なんかもそうだろうか。
幼くて不幸を知らない彼女には、
『理解できない苦しみや人恋しさ』が押し付けられる。
「私の場合は、『現在の竹井久が対処できない難問』ね。
だから私はただひたすら、
『問題解決能力』の向上に力を注いできた。
おかげさまで、私自身は夢も希望も持てないけどね」
そしてこの人もそうなのだ。
部長の人生は異常に過酷、到底『独り』では耐えられない。
だからバラバラに千切れて壊れて、
それぞれが苦しみを担っている。
解離性同一性障害。ようやく、
『多重人格』と呼ばれなくなった理由が分かった気がする。
複数の人格のように見えたとしても、
それは『一つが千切れてる』だけ。
ジグソーパズルみたいなもので、
結局は全員『部長』なんだ。
「で、宮永さん。貴女はそれを知ってどうするつもり?
ビリーミリガンよろしく、『人格の統合』を目指す?」
「正直そのつもりはありません。だって、
耐え切れなかったから分かれちゃったんだし」
「現状を受け入れるって言うの?」
「はい。その代わり、私が皆さんの負担を
少しだけ肩代わりしようと思います」
例えばこの『交換ノート』。部長一人ではこれが限界、
でも決して、最良の選択とは言い難かった。
部長が『スポット』を明け渡す時、
いつも都合よくノートを持っているだろうか。
入れ替わった人格が、ノートを見ている余裕はある?
スポットから離れる時、ノートにメモする時間は取れる?
あまりに穴が多過ぎる。
「私がノート代わりになります。
いつでも部長に寄り添って、全員の記憶を共有します。
そうすれば、部長は統合されたのと同じですから」
『久さん』はきょとんとした顔を浮かべて、
やがて大声で笑い始めた。
あまりに笑い過ぎたのだろう、目には涙が浮かんでいる。
「あっはははは!貴女、
自分が何言ってるかわかってるの?
寝ても覚めてもトイレもお風呂も、
ずっと私達を監視するわけ?」
「はい。私にできる限りですけど」
「貴女も病気ね。ひょっとしたら、
私達より重症なんじゃない?」
「そうかもしれません。多分症名が違うだけです」
部長は強かったから、一人で背負う道を選んだ。
でもやっぱり耐え切れなくて、
脳内に複数の自分を作り上げた。
私は弱かったから、そもそも一人の道を選べない。
最初はまずお姉ちゃん。そして次に、
部長を『依存先』に選んだ。
「『共依存』、か。まー『あの子』にはぴったりかもね。
でも、宮永さん。多分貴女、まだ私達を甘く見てるわよ?」
「……『消し去りたいと思う人』ですか?」
「そ。まあ宮永さんも病気だし、
この際ざっくばらんに話すわ。
貴女が私達と共に生きてくつもりなら、
今のうちに『20歳の久』に処女あげときなさい?」
「え、ええ、と? ど、どうして、ですか?」
流石に声が震えてしまう。
私にとって部長は大切な人、それはもちろん間違いない。
でも私達の関係は『ルームメイト』の域を出ず、
『恋人』までは進んでなかった。
……まあ、あくまで『肉体的には』だけど。
「なぜって。そりゃ、どうせ散らすなら
『和姦』の方がいいでしょう?」
「…………ええと、それって……」
『久さん』は眉を顰めると、逡巡する様子を見せる。
だがやがて意を決したように、淡々と言葉を吐き出し始めた。
「おそらく絶対いるからよ。『犯罪の素養を持つ人格』が。
その子が出てきたら終わり。
貴女――間違いなく『強姦』されるわよ?」
出てきた言葉の強さに震える。
犯罪を犯す人格。それも、他人をレイプするような人格が、
『部長の中に』存在する。正直信じ難かった。
だって部長は強くて、優しくて、
だからこそ壊れてしまって――。
「美化し過ぎるのはやめる事ね。所詮『竹井久』も人間よ」
「むしろ『この子』はかなり弱いわ、理不尽を何度も被って、
それでも『曲がらず生きる』なんてできなかった」
本人が言うなら事実なのだろう。
それでも私は信じられなかった。本当なら見せて欲しい。
その、『曲がってしまった部長』の姿を。
目を見て全てを悟ったのだろう。
『久さん』は諦めたようにかぶりを振る。
そして、一言零してスポットを去った。
「そう。なら自分の目で確かめなさい。代償は貴女の純潔よ」
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酷く脅されはしたものの、その日はなかなか訪れなかった。
部長が持つ人格は、基本的に『善人』ばかりだったからだ。
他にもいろんな部長に会った。
『ネガティブ久さん』だとか、『無気力久さん』だとか、
『泣き虫久ちゃん』とかもいた。
おそらくは『状況』と『感情』に対応しているのだろう。
主人格である部長の許容量を超えた時、
対処できる人格が『スポット』に座らされる。
つまりその人格は『問題解決のために選ばれた』わけで、
わざわざ状況を悪くするような子は出てこないのだ。
「うーん。やっぱりそんな子いないんじゃないですか?」
「いーや、いるんだってば。実際こっちは不利益被ったもの」
ちなみに今私と話しているのは『部長』だ。
いろんな『竹井久』と出会ったけれど、
やっぱり『部長』が一番落ち着く。
「もうそろそろ聞いてもいいですよね。
具体的にどんな『アクシデント』だったんですか?」
「『飲酒』と『喫煙』、後は『暴行』よ。
どれも普通に補導レベル。
すぐさま『お姉さん』に泣きついたわ。
私じゃどうしたらいいかわからなかったもの」
「そ、それは……なかなかですね」
だから『久さん』は知ってたのか。
なるほど、確かに警戒した方がいいのかもしれない。
でも私は決めていた。どんな部長が出てきても、
その全てを肯定すると。
「んで、『お姉さん』がアホな事言ってたのよね?
別に気にしなくていいわ、
危なくなったら『スポットを出て』で
退散できるはずだから」
「……部長は、私とそういう関係になりたいですか?」
「咲って本当ぐいぐい来るわね」
「だって聞かないとわからないですから。
黙ってたら人は離れちゃう。もう、
『お姉ちゃん』みたいなのは勘弁です」
「……そっか」
あの日私は間違えた。せっかくお姉ちゃんと会えたのに、
何も言えずに別れてしまった。
そして私は大将を『叩き潰し』、関係は致命的に悪化して、
それ以来お姉ちゃんとは会ってない。
お姉ちゃんに話す気がなかったとしても、
せめて私の方から話し掛けるべきだったんだ。
私がどれだけお姉ちゃんを愛しているか、
どんな思いで勝ち上がってきたか。
今でも心に刺さってる。
叫んだら、結果は違ったんじゃないかって。
ううん、例え同じだったとしても、
ここまで壊れる事はなかったはずだ。
もう二の轍は踏みたくない、今回はさらに勝算もある。
「で、どうですか?」
「てか、聞かなくてもわかってるんじゃないの?
今ではもう、貴女は私よりも
『竹井久』を知ってるんだから」
「はい。もう部長以外の
『竹井久さん』全員から聞きました。
後は『部長だけ』なんです」
「そ、外堀がっつり埋めて来るわね……」
いまだ踏み出せない部長に対し、私は息を吸い込んだ。
小細工は必要ない、ただ私の思いを告げる。
「私は部長が大好きです。どんな部長も愛せます。
部長が例え病気でも、何をされても受け入れます。
だから、部長も私を愛してください」
嘘偽りのない想い。でも多少は打算があった。
こう言えば部長は応えてくれる。
だって、部長以外の全員が喜んでくれたんだから。
「……」
私の言葉を聞いた部長は、肩を震わせ俯いた。
感動してくれたなら嬉しい。私は部長に近寄って――。
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「ふーん。そーいうなら、『試させて』もらおうじゃない」
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今まで聞いた事がないくらい、『攻撃的な』声を聞いた。
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反射で思わず後ずさった。そんな私を見下しながら、
部長は残忍な笑みを浮かべる。
「舐められたもんよねー。
『部長以外の竹井久全員』ってか。
ふーん、『私はここでも除け者』ってわけ?」
「あ、あの……貴女は……!」
「あーあー、でもそうね、アンタの言う通りだわ。
だって私、『竹井久』じゃないもの」
「……え?」
言葉の意味がわからなかった。
だって部長は解離性同一性障害で、
分断された人格は、全て『竹井久』のはずだ。
それとも実は『他人』もいるのか?
確かにあり得る話ではある。
『ビリー・ミリガン』もそうだった。
彼は最初から全員が別人、『ビリー』は一人しかいない。
でも部長はそのケースには該当しないはずで――。
「アンタ結構バカなのね。
病気じゃなくても普通にあるでしょ?
名前が変わるケースなんてさ」
「っ……! それは……!」
「私の名前は『上埜久』。アンタがご丁寧に
『仲間外れ』にしてくれた最後の一人」
「そして――『あいつが消し去りたい人格』でもあるわね」
『久さん』が言っていた。
『貴女はまだ私達を甘く見ている』。
手遅れになった今頃になって、私は肌で理解する。
あの言葉は本当だった、この人は……この人だけは、
他の人とは全然違う。
「『どんな部長でも愛せます』だっけ?
ざーんねん、私『部長』じゃないのよねー。
腹立つわ、アンタ本当に私を除け者にしてばかりよね?
さーて、どうしてくれようかしら」
「わ、わた、私は、そんなつもりじゃ……!」
「あー、いーのいーの。気にしなくていいわよ?
言葉なんて『薄っぺらいもの』、最初から信じてないからさ。
知ってる? 人ってね、簡単に『裏切る』のよ?」
「神様の前で『永遠の愛』を誓っちゃってさ、
公衆の面前でキスまでしちゃっておきながら、
あっさり離婚しちゃうんだもの」
「んで、愛の結晶を押し付け合うの。
クズよねー。でも、人間ってそーゆー生き物なのよ」
ああ、彼女の役割がよくわかった。
『怒り』と『憎しみ』、後は『不信』。
対人での負の感情を、一手に引き受ける担当なんだ。
正直に言って怖かった。あの『優しい竹井久』が、
全力で除け者にした『負の人格』。
本気で殺されてもおかしくない、
殴られるくらいは『当たり前』だろう。でも――。
だからこそ、私は受け入れないといけない。
「……何をしたら、信じてもらえますか?」
「はぁ?」
「だから。何をしたら、『貴女を含めて』愛していると、
貴女は信じてくれますか?」
「……アンタ、ホンッット私を怒らせるの上手ねえ?」
『上埜さん』が歪に口角を吊り上げる。
そのこめかみには血管が浮き、怒っているのは明白だ。
怒らせたいわけじゃない。
でも、これしか思い浮かばなかった。
「ま! そーゆー事なら試させてもらうわ。
『何をされても受け入れる』のよね?
まずはその薄っぺらい言葉、撤回してもらおうじゃない?」
「しません。嘘なんかついてませんから」
「うわー、うっれしー! じゃーお言葉に甘えて、
『何でも好き勝手に』させてもらうわ!」
『上埜さん』が大股で距離を詰めてくる。
そして乱暴に服を掴み、力任せに引っ張った。
「あぅっ!!」
ブチブチとボタンが千切れ、胸を晒しながら倒れこむ。
それでも彼女は止まる事無く、今度はズボンをずり下ろす。
「はいこれで全裸。何されるかはわかってるわよね?
嬉し恥ずかし『処女喪失』よ。当然捧げてくれるのよね?」
思わず眉間に皺が寄る。無論、部長に捧げる事に文句はない。
でも、このシチュエーションは流石に傷つく。
「あはは、ほーら嘘ばっかり! アンタ今嫌がったでしょ!
全然受け入れてないじゃない!
前言撤回までタイム数分?
うちのクソ親だって離婚まで数年は我慢したわよ?
アンタ本当に薄っぺらいわね!」
「……誤解しないでください。貴女が欲しいなら捧げます」
「あはは、もう喧嘩腰!
それ、もう『愛情』じゃないわよね?
自分のプライド守りたくって、
意地を張ってるだけでしょう!?」
「でも残念、アンタはもう『嘘つき』なのよ!
ほら、さっさと『スポットから出て』って言いなさいな!」
「そしてアンタの大好きな『竹井久』に謝るといいわ!
『嘘をついてごめんなさい』、ってね!」
「言いませんし謝りません!」
「言いなさいよこの偽善者!!
足掻いてもアンタはもう『嘘つき』なの!
だって、全然平気そうじゃないじゃない!」
ああ、そういう事なのか。この人はきっと誤解している。
『私は部長に何をされても平気、喜んで蹂躙される』
そう宣言したと思ってるんだ。
「上埜さん、貴女は多分誤解してます」
「何を?」
「私は『受け入れる』とは言いました。
でも、『傷つかない』とは言ってません」
「……それで?」
「私だって人間です、酷い事をされれば傷つきます。
多分泣きじゃくるでしょう、平気な顔はできません」
「でも、それでも――」
「貴女が私にする事を、一切否定せず受け入れます」
『上埜さん』の顔から表情が消える。
私の秘部に伸ばしていた指を離し、やがてすくりと立ち上がった。
「……ふーん。思ったよりは本気みたいね。
じゃあ、処女喪失はやめとくわ」
「してもらってもいいですよ?」
「だってアンタ、『竹井久』を愛してるんでしょ?
だったら我慢できても不思議はないものね。
いくら中身が『私』でも、結局身体は同じわけだし」
「その程度じゃ駄目って事ですか」
「もち。てかセックスなんて愛の証明にはならないわ。
離婚したうちのクソ親でもやってんだし。
私はただ、アンタを虐めたかっただけ」
「……なら、もう一回聞きます。
何をしたら信じてもらえますか?」
「そーねぇ、ま、やっぱこれでしょう!」
『上埜さん』はケラケラ嗤うと、やがて台所に足を運ぶ。
シンクの下の扉を開けて、包丁を一本取り出した。
「これは私の持論だけどさ。『永遠の愛』なんて、
本人がみっともなく主張するもんじゃないのよ。
二人で寄り添い死に絶えて、結果、
『二人の愛は永遠になった』って
他人が語るものだと思うわ」
「まーでも、だったら……一つだけ、
自分で証明する方法あるわよね?」
『上埜さん』が私のところに戻って来る。
右手に包丁を携えたまま。包丁がギラリと光る。
彼女の目も妖しく光った。そして彼女は微笑んで――。
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「信じて欲しければ――死になさい?」
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私のお腹に包丁を突き付けた。
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ぶわりと汗が噴き出した。俗に言う『切腹』だ。
腹部を選んだ理由は慈悲じゃない。
より長く苦しんで死なせるためだろう。
理性が警鐘をかき鳴らす。当たり前だ、
これを受け入れたら死んでしまう。いくら何でも無理がある。
死んだら私は終わってしまう、夢も希望も何もかも。
何より死んでも終わらないのだ、悲しみは負の連鎖を生む。
むしろ残された方が辛い、そう、『あの子の時』みたいに――。
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でも。部長が壊れてしまったように、
私もすでに『手遅れ』だった。
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恐怖に歯をカチカチ鳴らす。
なのに、『ちょっといいな』と思ってしまった。
この包丁で自死を遂げれば、私の愛は証明される。
そして部長は泣きじゃくり、私の後を追うだろう。
つまり、部長は『もう苦しまなくてよくなる』のだ。
何よりこれは『悪魔の証明』。拒絶してしまえば最後、
部長は二度と、私に心を開かなくなるだろう。
つまり正解のない二択、どちらを選んでも破滅する。
(だったら……ちょっとくらい『我儘』でもいいよね?)
よし、覚悟は決まった。私はここで人生を終える。
向けられた包丁を手で握った。『ぶじゅり』、
肉に歯が食い込んで、大量の血が滴り始める。
流石に『上埜さん』でも予想外だったのだろう。
包丁を握る手から力が抜ける。私はそのまま刃を奪い、
逆手にそれを握り直した。
「ちょ、ちょっと。アンタ、何するつもりよ」
「何って……上埜さんの言う通り、『自殺』ですけど」
「えっ……」
「上埜さん。多分貴女、まだ私の事を甘く見てますよね?
『どうせ、ちょっと脅せば発言を撤回する』。
そんな風に思ってませんか?」
心外だ、私の愛は軽くない。むしろ誰より重過ぎて、
誰も耐え切れず逃げ出すほどに。
「私も病気なんですよ。当たり前じゃないですか。
壊れた部長と添い遂げるんだもん、
そんな私が普通なわけないよ」
包丁を振り上げる。ひっ、小さな悲鳴が木霊した。
もちろん私の声じゃない、『上埜さん』が出した音。
「最期にもう一回言うね。私は貴女を愛してる。
竹井久も、上埜久も、久ちゃんも、久さんも、
貴女の全部を愛してる。だから――」
強い部長も、弱い部長も。
綺麗な竹井久も、汚れた上埜久も。
全てをそのまま受け入れる。そしてもちろん――
「貴女が死ねと言うのなら、
もちろん私はちゃんと死にます」
最期に私は笑顔を見せる。
涙でドロドロになった『上埜さん』は、
もう『上埜さん』かはわからなかった。
私は手を振り下ろす、『上埜さん』が床を蹴る、
手を伸ばして、もちろん間に合うはずがない、
包丁がお腹に吸い込まれる、そして――。
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周囲に血が飛び散って、私の意識はそこで途絶えた。
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咲が起こした『自殺未遂』は、
なぜか軽症に留まった――だなんて、
素敵な奇跡が起こるはずもなく。
咲のお腹には深々と包丁が突き刺さり、
私は涙ながらに救急車。結果、
彼女は救命救急科へと運ばれる事になった。
(なんで、どうして『受け入れてしまった』の……?)
呪文は何度も教えたはずだ。『スポットから出て』、
ただそう一言呟くだけで、彼女は難を免れたのに。
いいや、本当のところはわかっていた。
咲は気づいていたのだろう。本当は、
『竹井久と上埜久が意識を共有している事』を。
咲と対峙した上埜久は、
直前に交わされた会話を理解していた。これはつまり、
『上埜久は竹井久の記憶を取得できる』事を意味している。
さらに上埜久は『スポットから出て』を催促した、
さらには『竹井久に謝れ』とも。
もし『竹井久が上埜久の記憶を共有できない』なら、
そもそも咲は謝る必要がない。簡単に隠蔽できるからだ。
一連の流れから、咲は私達の秘密に気づいた。
だからこそ、『上埜久を拒絶して、
竹井久に吐いた言葉を反故にする事』を恐れた――。
(違うでしょうよ、いい加減認めなさい。
あの子は単純に『上埜久』も受け入れようとしたのよ)
(キチガイよねぇ、狂ってるわ。
でも、あの子は多分そういう子なのよ。
全ての『久』を愛してくれるの)
(……ねえ、いい加減『分かれる』必要ないんじゃない?
どんな弱音を吐いたところで、
どんな汚点を見せたところで、
あの子なら受け止めてくれるでしょう?)
『誰』の言葉かはわからなかった。
『20歳の竹井久』? それとも『14歳の上埜久』?
いや、多分もう『どちらでもない』。
私達は『統合』したのだ。
咲の捨て身の『治療』のおかげで。
「だからお願い、戻って来て。
もう、貴女を疑ったりしないから」
緊急手術室のランプを睨みつける。
咲は今も戦っていた。私にできる事はもう祈るだけ。
咲が逝ってしまったら、後を追い掛ける事だけだ――。
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事件が起きてから三か月、今も私は病室にいる。
部長に聞いた話だと、私の傷は結構深く、
なかなかの大手術になったそうだ。
後数センチずれていれば『終わり』、
内臓を傷つけて帰らぬ人になっていたらしい。
「生きた心地がしなかったわよ。
貴女がそのまま逝っちゃった時の事を考えて、
途中で刃物まで買っちゃったわ」
ただ、悪い事ばかりでもなかったようだ。
『上埜さん』は私を認めて、『全人格が私を認めた』。
その結果、『咲がいれば解離は不要』と判断され、
部長は『統合』されたらしい。
「微妙に残念ですね」
「え、なんでよ。分裂したままの方がよかったっての?」
「だって久ちゃん可愛かったですし。
それとも部長、久ちゃんみたいに甘えてくれますか?」
「ごめん無理。恥ずかし過ぎて死にたくなる」
「今すぐ解離してください」
「せっかく統合されたのに!?」
部長と二人で笑いあう。
嘘をついたわけではなかった。
本当にあのままでもよかったのだ。
もちろんあの状態が部長にとって苦しいなら、
素直に統合して欲しいけれど。
「ねえ咲、知ってる? 解離性同一性障害の治療ってね、
必要不可欠なものが一つあるの。
例のビリー・ミリガンもそうだったわ」
「……何ですか?」
「何だと思う?」
ビリー・ミリガンの場合を考えてみる。
彼は人生に翻弄された。自業自得とも言えたけど、
理不尽なほどの冷遇を受け苦しんでいる。
そんな彼を救ったのは、彼を助ける周囲の存在だった。
生半可な支援じゃない。例えば彼の弁護士は、
彼に関する支援が多忙を極めた結果、
自身の妻と離婚している。
「……支えてくれる人ですか?」
「そうね。それも……自身を犠牲にしてでも
助けてくれようとする人」
それはもはや『奇跡』だろう。
病気の時点で不良物件、そんなの見捨てるのが普通。
もし、自己犠牲で助けてくれる人がいるとしたら、
もはや正気を疑うべきだ。
「解離性同一性障害が治るケースは少ないわ。
だって周りが見放しちゃうもの」
「そして症状が悪化して……最後には、
『上埜久』みたいなのが自殺しちゃうの」
「なんとなくわかる気がします」
そう考えるとぞっとする。
あの状態が続いていれば、いつか部長は自殺していた。
そして私は残されて、きっと発狂していただろう。
「だからね。私にとって咲は命の恩人で、
それどころかもう『奇跡』なの。
貴女のためなら何でもするわ。
……だからもう、私を置いて逝かないで」
「正直お互い様ですよ。私だって、
『部長に嫌われるくらいなら死んじゃえ』って
考えたわけですし。
部長のためなら何でもします。
死ねと言われたら喜んで死にます。
……だから、私を捨てないでくださいね」
やっぱり私達は『似たもの同士』だった。
部長の病気は治ってない、ただ症状が変わっただけだ。
おそらくそれは『共依存』、私と二人で堕ちただけ。
ただ一つ、確実に言える事がある。
私は狂人だったからこそ部長を救えて、
部長は壊れていたからこそ私を救えた。
二人で『病気』だからこそ、今こうして寄り添えている。
「解離してもいいですよ。どんな部長も愛しますから」
「いくらでも依存して。絶対離してあげないから」
狂気を孕んだ言葉を囁き、私達は口付けた。
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解離性同一性障害、それは死に至る病。
その特効薬はただ一つ――『狂人の愛』。
私は特効薬として、今も部長のそばにいる。
(完)
その他のリクエストがそのままあらすじです。
<登場人物>
竹井久,宮永咲,その他
<症状>
・解離性同一性障害
・狂気
・共依存
・異常行動(自殺)
<その他>
・以下のリクエストの対するSSです。
カップリングは久咲で、症状は解離性同一性障害(久)。
久と同棲を始めた咲が、その生活のなかで
様々な「久」を見つけていき、
そのすべてを例外なく愛するという感じ
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『それ』を初めて聞かされたのは、
『部長』とルームシェアを始めた初日の事だった。
「ねえ咲。貴女は『解離性同一障害』って知ってる?」
私こと宮永咲は、高校を卒業後、部長と同じ大学に進学した。
そこでも『部長』をやっていた彼女の提案で、
家賃を折半する事になったのだ。
3年間の親交を経て、彼女と親しくなっていた私は、
その提案を二つ返事で受け入れた。
自分の荷物を運びこみ、あらかた片付きほっと一息。
『さあこれから新生活だ』、そう意気込んだ矢先の事だった。
「えーと……心と体の性別が一致しない人ですっけ」
「あー、それは『性同一性障害』の方ね。
そうやってごっちゃになりやすいからか、
最近では『性別違和』って呼ばれてるけど」
「あ、そうなんですか。じゃあ、ちょっとわからないです」
「そっか。まあ、いわゆる『多重人格障害』よ」
「ああ、そうなんですね」
曖昧に相槌を打ちつつも、疑問符が頭の片隅をかすめた。
なんでわざわざ『いわゆる』なんて、
補足説明が必要な名前にしたんだろう。
最初から『多重人格』では駄目なのだろうか。
「その、多重人格障害がどうかしたんですか?」
「うん。これからは咲と一緒に生活していくんだし、
この事は伝えておく必要があると思ってね」
「実は私、その『解離性同一性障害』って奴なのよ」
「は、はぁ……?」
一瞬、『またからかわれてるのかな?』と思った。
でも瞬時に思い直す。気づいたからだ。
部長の指は震えていた。
部長は今、恐怖と戦いながら話している。
「私の脳内には複数の人格が存在する。
どれも『竹井久』だけど、
それぞれ年齢も性格もバラバラ。
人当たりのいい子も居れば、
私自身消し去りたいと思う人格もいるわ。
そのせいで、貴女に迷惑をかけるかもしれない」
「……はぁ」
「だから。もし貴女にとって
気に入らないタイプの人格が出てきた時は……
大声で、『スポットから出て!』って叫んで欲しいの。
それでその子は退散するから」
「は、はぁ……」
我ながら、気の抜けた返事をし過ぎだと思った。
でも許して欲しい、まるで理解が追いつかないのだ。
話が飛躍し過ぎている。多重人格? 複数の『竹井久』?
そんな事、本当に起こりうるのだろうか。
部長との付き合いも、今年でもう4年目だ。
年齢が生む離別のせいで、距離が離れた事はある。
それでも、会えない間もSNSや電話で繋がり続けた。
何が言いたいかと言うと、『私達はかなり親密』という事だ。
少なくとも大学進学するにおいて、
ルームシェアを提案されるくらいには。
そしてこの3年の間、部長が『別人格になった』事は一度もない。
「ひた隠しにしてたのよ、咲に嫌われたくなかったから。
咲と話すのは『主人格の私』だけ。
他の『私』が咲に触れる事がないように気をつけてた」
「でもまぁ、一緒に暮らすとなるとちょっとね。
流石に隠しきれないと思うから」
寂し気な顔で微笑む部長、なおも指先は震えている。
正直私は気圧されていた。なんて重い告白だろう。
もはやそれは、『プロポーズ級』の重量を伴っていた。
『ちょっと持病がありますよ』、なんて軽い話ではない。
『私は精神を患った異常者です、貴女は私を嫌うでしょう。
それでも一緒に住みたいです、受け入れてくれますか?』
そういうレベルの懇願なのだ。
「……はい、私なら大丈夫です」
それでも迷う事なく頷く。むしろ支えたいと思った。
この、器用で不器用な弱い人を。
多重人格障害。どれほどつらい障害なのか、
今の私にはわからない。つまり『想像を絶する』わけだ。
それでもこの3年間、部長は病気を隠し続けた。
入念な準備と、異常なまでの精神力で。
私に迷惑を掛けまいと、『健康な竹井久』を
演じきって見せたのだ。
そんな人が、ようやく私に弱さを見せた。
この、『誰より弱さを見せる事を恐れる人』が。
奇妙な優越感すら覚える、私は確かに『選ばれた』のだ。
どんな部長でも受け入れよう。優しくこの手で包み込もう。
例え傷つけられたとしても、私は笑顔で抱き締めよう。
そんな決意を胸に秘め、私はさらに言葉を重ねる。
「何があっても、私は部長を見捨てませんから」
我ながら、吐いた言葉の強さに驚く。
案の定、部長は僅かに後ずさった。
信じてもらえなかっただろう、不信を抱いたかもしれない。
でも、今はそれで問題なかった。
だって本当なのだから。後は、行動で示すだけでいい。
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今現在、部長の中には複数の人格が存在する。
主人格は『現在20歳の竹井久』、私が『部長』と呼ぶ人だ。
基本的には彼女が肉体を操っている。
しかし、まれにひょいと別人格が姿を現す。
ちなみに人格間で記憶を共有する事はできないそうだ。
ゆえに部長は『交換ノート』を用意して、
複数の自分と情報共有を行っている。
「まあ、そんなに悪い子はいないと思うわ。
こちらの意図も理解して、基本的には
問題が起きないように動いてくれてるし」
部長はノートを指さした。その内容を見て驚く。
筆跡が見事にバラバラなのだ。私が知る筆跡は一つだけ、
達筆な字もあれば平仮名ばかりの文字もあった。
「ほら、例えばこの人。『28歳の竹井久』ね、
私は『お姉さん』なんて呼んでるわ。
私よりもずっと大人で、私にアドバイスをしてくれる。
この人が出たら『ラッキー』ね」
文字をなぞる部長の目はどこまでも好意的だ。
なるほど。多重人格だからと言って、
悪い事ばかりでもないらしい。でもだからこそ引っ掛かる。
「……あの。部長は、自分以外の人格と
意識や記憶を共有できないんですよね?」
「そうね。だから実際の人格がどうかはわからないわ。
ノートを見て想像するだけ」
「でも、大体の人は協力してくれてる」
「そうね」
「その、だとしたら……
『消し去りたいと思う人格』の人について、
どうしてそう思ったんですか?」
部長の顔から表情が消えた。わかっている、
これが『地雷』である事は。それでもこれはチャンスなのだ、
話しにくい事は今のタイミングで聞いておきたい。
「咲って案外ずばっと来るわね」
「いい加減学びましたから。
遠回しに聞いても隠されるだけだって」
「話したくないって言ったら?」
「それならそれでいいです。
部長が、私を信じてくれるまで待ちます」
部長は天井を見上げてため息。そしてガシガシ頭をかくと、
「降参」と呟いた後教えてくれた。
「交換ノートを使ってくれる子はいいのよ。
協力して生きて行こうっていう意思がある。
でも、明らかに使ってない子が最低一人はいるわ」
「どうしてわかるんですか?」
「時間が飛ぶからよ。意識が飛んで、我を取り戻す。
時間が数時間経過、ノートを見ても何も書いてない。
そして大体は……アクシデントが起きている」
「アクシデント、ですか」
流石に聞くべきか判断に迷った。
聞けば必ず、部長の古傷を抉る事になる。
その癖今更何もできない、覆水は盆に返らないからだ。
結局聞くのは諦めた。
「だから、覚えておいて。『スポットから出て!』
咲がそう叫んでくれれば、『私』が意識を取り戻す。
そいつを無理矢理スポットからどけて、
私が支配を取り戻すから」
「はい。あの、『スポット』って何ですか?」
「そのまんまよ、スポットライトみたいなもの。
私という肉体を操作するための操縦室と言ってもいい。
私達は暗い部屋で同居していて、
そのスポットに立った人格が肉体を支配するの」
「……同居人の素性はわからない状態で、ね」
ぞっと背筋が寒気で震えた。
こんな怖い『椅子取りゲーム』があっただろうか。
もしスポットを奪われて、ずっとそこに居座られたら、
殺されたも同然だ。
「大丈夫よ。基本、私が一番強いもの」
部長はけらけら笑って見せた。
それが虚構な事くらい、今の私には容易にわかる。
間違いない、部長はこの状態に強い恐怖を感じている。
当たり前だろう。いつ、
『自分が自分でなくなるかわからない』のだ。
普通に怖い、だから私はその手を握る。
「大丈夫です、私がそばにいますから」
部長は目を見開いた。そしてしばらく目を閉じて、
やがて満面の笑みで一言――。
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「おねえちゃん、だれ?」
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今度は私が目を見開いた。
こんなにいきなり切り替わるのか。
油断していた、心の準備ができてない。
とりあえず『赤の他人』として接するべきなのだろう。
そして、おそらく『幼児に話し掛ける』ように。
「ええとね、私は宮永咲。竹井久さんのお友達で、
一緒に住む事になってるの。貴女は誰?」
「わたしも ひさだよ!」
ピンときた。『ノート』に時折現れる平仮名の筆跡。
おそらくはこの子のものだろう、つまりこの子は『味方側』だ。
ノートを開く。
「そうなんだね。久ちゃんはこのノート知ってる?」
「しってる! みんなで にっきを かいてるんだよ!」
「えらいね。あ、ほらここ見て。20歳の久さんから伝言がある。
『宮永咲と一緒に暮らす。全員、彼女を大切にするように』って」
漢字には全部フリガナが振ってあった。
おそらくは、まだ幼い彼女への配慮だろう。
「ふへー。あ、じゃあじゃあ、
『さきおねえちゃん』ってよんでいい?」
「いいよ。じゃあ私は『久ちゃん』って呼ぶね」
「わーい! うれしいな! ひさ、
ずっとひとりぼっちだったから!」
ズクン、胃が一気に重さを増した。
天真爛漫で、人懐っこい性格の『久ちゃん』。
でもやっぱり彼女は『病気』から生まれた人格で、
どうしようもない闇を孕んでいる。
幼い彼女が持つ記憶、それはおそらく『事実』だろう。
部長はこんな小さな頃から、一人で恐怖と戦っていた。
その事実が悲しくて、悔しくて、
思わず『久ちゃん』を抱き締める。
「えっと……さきおねえちゃん?」
「ごめんね。少しだけ、こうさせて」
「……さきおねえちゃん、ないてるの?」
「うん。ちょっと悲しかったから」
「そうなんだ。じゃあ、ひさが『なでなで』してあげる!」
なんて強い子なのだろう。なんて悲しい子なのだろう。
誰より可哀そうなのは『久ちゃん』なのに、
それでも彼女は他人を守る。
多分気づいていないのだ、『自分が不幸だ』と言う事に。
だから『鈍い』。ああ、そうか、そういう事か――。
「久ちゃん。これからは、いっぱい出てきていいからね」
「へ? どーゆーこと?」
「悲しくなったら、辛くなったら、
私が抱き締めてあげるから。
『なでなで』もいっぱいしてあげる」
「えーと、よくわかんないけど わかった!」
『久ちゃん』は笑顔で頷いた。
きっとわかっていないのだろう、でもそれでいい。
私がわかっていればいい事だから。
今度は私が『久ちゃん』を『なでなで』する。
『久ちゃん』は嬉しそうに目を細めると、
やがて『スポット』から消えていった。
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『多重人格障害』は、そもそもなぜ起こるのか。
参考書籍を読み解きながら、私は答えを探し求める。
幸いすぐ見つかった。『24人のビリー・ミリガン』。
部長と同じく多重人格障害だった患者の半生を描いた作品で、
そこには明確な解答が記されていた。
「ま、そういう事ね。だから『私』から言わせれば、
解離性同一性障害は病気じゃないのよ。
『生き残るための防衛本能』ってわけ」
「主人格の竹井久が耐え切れない事象が発生した時、
それに対応できる人格が現れるのよ。
例えば私であれば『もっと大人の竹井久』ね。
『今の私じゃ無理だけど、大人の私なら耐えられるはず』、
おそらくそう言う考えで生み出されてる……残酷よね」
『久さん』は嘲る様に鼻で嗤うと、
優雅な手つきで紅茶のカップを傾けた。
この人は『28歳の竹井久』、確かに雰囲気が明らかに違う。
「えっと、皆さんって年は取るんですか?」
「私の場合は取らないわね。
与えられた役割によって違うのかもしれないわ。
例えば私は28歳。生まれたのは主人格が14の頃だから、
確かに相当大人でしょう。
……今じゃもう、8つしか違わないけどね」
「じゃあ、久ちゃんもずっと6歳のままなんですか?」
「そうよ。その方が『痛みに強い』でしょう?」
胸がぎゅうと締め付けられる。ああ、やっぱりそうだった。
『久ちゃん』の担当は、『苦痛』。
後は『甘えたい』なんかもそうだろうか。
幼くて不幸を知らない彼女には、
『理解できない苦しみや人恋しさ』が押し付けられる。
「私の場合は、『現在の竹井久が対処できない難問』ね。
だから私はただひたすら、
『問題解決能力』の向上に力を注いできた。
おかげさまで、私自身は夢も希望も持てないけどね」
そしてこの人もそうなのだ。
部長の人生は異常に過酷、到底『独り』では耐えられない。
だからバラバラに千切れて壊れて、
それぞれが苦しみを担っている。
解離性同一性障害。ようやく、
『多重人格』と呼ばれなくなった理由が分かった気がする。
複数の人格のように見えたとしても、
それは『一つが千切れてる』だけ。
ジグソーパズルみたいなもので、
結局は全員『部長』なんだ。
「で、宮永さん。貴女はそれを知ってどうするつもり?
ビリーミリガンよろしく、『人格の統合』を目指す?」
「正直そのつもりはありません。だって、
耐え切れなかったから分かれちゃったんだし」
「現状を受け入れるって言うの?」
「はい。その代わり、私が皆さんの負担を
少しだけ肩代わりしようと思います」
例えばこの『交換ノート』。部長一人ではこれが限界、
でも決して、最良の選択とは言い難かった。
部長が『スポット』を明け渡す時、
いつも都合よくノートを持っているだろうか。
入れ替わった人格が、ノートを見ている余裕はある?
スポットから離れる時、ノートにメモする時間は取れる?
あまりに穴が多過ぎる。
「私がノート代わりになります。
いつでも部長に寄り添って、全員の記憶を共有します。
そうすれば、部長は統合されたのと同じですから」
『久さん』はきょとんとした顔を浮かべて、
やがて大声で笑い始めた。
あまりに笑い過ぎたのだろう、目には涙が浮かんでいる。
「あっはははは!貴女、
自分が何言ってるかわかってるの?
寝ても覚めてもトイレもお風呂も、
ずっと私達を監視するわけ?」
「はい。私にできる限りですけど」
「貴女も病気ね。ひょっとしたら、
私達より重症なんじゃない?」
「そうかもしれません。多分症名が違うだけです」
部長は強かったから、一人で背負う道を選んだ。
でもやっぱり耐え切れなくて、
脳内に複数の自分を作り上げた。
私は弱かったから、そもそも一人の道を選べない。
最初はまずお姉ちゃん。そして次に、
部長を『依存先』に選んだ。
「『共依存』、か。まー『あの子』にはぴったりかもね。
でも、宮永さん。多分貴女、まだ私達を甘く見てるわよ?」
「……『消し去りたいと思う人』ですか?」
「そ。まあ宮永さんも病気だし、
この際ざっくばらんに話すわ。
貴女が私達と共に生きてくつもりなら、
今のうちに『20歳の久』に処女あげときなさい?」
「え、ええ、と? ど、どうして、ですか?」
流石に声が震えてしまう。
私にとって部長は大切な人、それはもちろん間違いない。
でも私達の関係は『ルームメイト』の域を出ず、
『恋人』までは進んでなかった。
……まあ、あくまで『肉体的には』だけど。
「なぜって。そりゃ、どうせ散らすなら
『和姦』の方がいいでしょう?」
「…………ええと、それって……」
『久さん』は眉を顰めると、逡巡する様子を見せる。
だがやがて意を決したように、淡々と言葉を吐き出し始めた。
「おそらく絶対いるからよ。『犯罪の素養を持つ人格』が。
その子が出てきたら終わり。
貴女――間違いなく『強姦』されるわよ?」
出てきた言葉の強さに震える。
犯罪を犯す人格。それも、他人をレイプするような人格が、
『部長の中に』存在する。正直信じ難かった。
だって部長は強くて、優しくて、
だからこそ壊れてしまって――。
「美化し過ぎるのはやめる事ね。所詮『竹井久』も人間よ」
「むしろ『この子』はかなり弱いわ、理不尽を何度も被って、
それでも『曲がらず生きる』なんてできなかった」
本人が言うなら事実なのだろう。
それでも私は信じられなかった。本当なら見せて欲しい。
その、『曲がってしまった部長』の姿を。
目を見て全てを悟ったのだろう。
『久さん』は諦めたようにかぶりを振る。
そして、一言零してスポットを去った。
「そう。なら自分の目で確かめなさい。代償は貴女の純潔よ」
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酷く脅されはしたものの、その日はなかなか訪れなかった。
部長が持つ人格は、基本的に『善人』ばかりだったからだ。
他にもいろんな部長に会った。
『ネガティブ久さん』だとか、『無気力久さん』だとか、
『泣き虫久ちゃん』とかもいた。
おそらくは『状況』と『感情』に対応しているのだろう。
主人格である部長の許容量を超えた時、
対処できる人格が『スポット』に座らされる。
つまりその人格は『問題解決のために選ばれた』わけで、
わざわざ状況を悪くするような子は出てこないのだ。
「うーん。やっぱりそんな子いないんじゃないですか?」
「いーや、いるんだってば。実際こっちは不利益被ったもの」
ちなみに今私と話しているのは『部長』だ。
いろんな『竹井久』と出会ったけれど、
やっぱり『部長』が一番落ち着く。
「もうそろそろ聞いてもいいですよね。
具体的にどんな『アクシデント』だったんですか?」
「『飲酒』と『喫煙』、後は『暴行』よ。
どれも普通に補導レベル。
すぐさま『お姉さん』に泣きついたわ。
私じゃどうしたらいいかわからなかったもの」
「そ、それは……なかなかですね」
だから『久さん』は知ってたのか。
なるほど、確かに警戒した方がいいのかもしれない。
でも私は決めていた。どんな部長が出てきても、
その全てを肯定すると。
「んで、『お姉さん』がアホな事言ってたのよね?
別に気にしなくていいわ、
危なくなったら『スポットを出て』で
退散できるはずだから」
「……部長は、私とそういう関係になりたいですか?」
「咲って本当ぐいぐい来るわね」
「だって聞かないとわからないですから。
黙ってたら人は離れちゃう。もう、
『お姉ちゃん』みたいなのは勘弁です」
「……そっか」
あの日私は間違えた。せっかくお姉ちゃんと会えたのに、
何も言えずに別れてしまった。
そして私は大将を『叩き潰し』、関係は致命的に悪化して、
それ以来お姉ちゃんとは会ってない。
お姉ちゃんに話す気がなかったとしても、
せめて私の方から話し掛けるべきだったんだ。
私がどれだけお姉ちゃんを愛しているか、
どんな思いで勝ち上がってきたか。
今でも心に刺さってる。
叫んだら、結果は違ったんじゃないかって。
ううん、例え同じだったとしても、
ここまで壊れる事はなかったはずだ。
もう二の轍は踏みたくない、今回はさらに勝算もある。
「で、どうですか?」
「てか、聞かなくてもわかってるんじゃないの?
今ではもう、貴女は私よりも
『竹井久』を知ってるんだから」
「はい。もう部長以外の
『竹井久さん』全員から聞きました。
後は『部長だけ』なんです」
「そ、外堀がっつり埋めて来るわね……」
いまだ踏み出せない部長に対し、私は息を吸い込んだ。
小細工は必要ない、ただ私の思いを告げる。
「私は部長が大好きです。どんな部長も愛せます。
部長が例え病気でも、何をされても受け入れます。
だから、部長も私を愛してください」
嘘偽りのない想い。でも多少は打算があった。
こう言えば部長は応えてくれる。
だって、部長以外の全員が喜んでくれたんだから。
「……」
私の言葉を聞いた部長は、肩を震わせ俯いた。
感動してくれたなら嬉しい。私は部長に近寄って――。
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「ふーん。そーいうなら、『試させて』もらおうじゃない」
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今まで聞いた事がないくらい、『攻撃的な』声を聞いた。
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反射で思わず後ずさった。そんな私を見下しながら、
部長は残忍な笑みを浮かべる。
「舐められたもんよねー。
『部長以外の竹井久全員』ってか。
ふーん、『私はここでも除け者』ってわけ?」
「あ、あの……貴女は……!」
「あーあー、でもそうね、アンタの言う通りだわ。
だって私、『竹井久』じゃないもの」
「……え?」
言葉の意味がわからなかった。
だって部長は解離性同一性障害で、
分断された人格は、全て『竹井久』のはずだ。
それとも実は『他人』もいるのか?
確かにあり得る話ではある。
『ビリー・ミリガン』もそうだった。
彼は最初から全員が別人、『ビリー』は一人しかいない。
でも部長はそのケースには該当しないはずで――。
「アンタ結構バカなのね。
病気じゃなくても普通にあるでしょ?
名前が変わるケースなんてさ」
「っ……! それは……!」
「私の名前は『上埜久』。アンタがご丁寧に
『仲間外れ』にしてくれた最後の一人」
「そして――『あいつが消し去りたい人格』でもあるわね」
『久さん』が言っていた。
『貴女はまだ私達を甘く見ている』。
手遅れになった今頃になって、私は肌で理解する。
あの言葉は本当だった、この人は……この人だけは、
他の人とは全然違う。
「『どんな部長でも愛せます』だっけ?
ざーんねん、私『部長』じゃないのよねー。
腹立つわ、アンタ本当に私を除け者にしてばかりよね?
さーて、どうしてくれようかしら」
「わ、わた、私は、そんなつもりじゃ……!」
「あー、いーのいーの。気にしなくていいわよ?
言葉なんて『薄っぺらいもの』、最初から信じてないからさ。
知ってる? 人ってね、簡単に『裏切る』のよ?」
「神様の前で『永遠の愛』を誓っちゃってさ、
公衆の面前でキスまでしちゃっておきながら、
あっさり離婚しちゃうんだもの」
「んで、愛の結晶を押し付け合うの。
クズよねー。でも、人間ってそーゆー生き物なのよ」
ああ、彼女の役割がよくわかった。
『怒り』と『憎しみ』、後は『不信』。
対人での負の感情を、一手に引き受ける担当なんだ。
正直に言って怖かった。あの『優しい竹井久』が、
全力で除け者にした『負の人格』。
本気で殺されてもおかしくない、
殴られるくらいは『当たり前』だろう。でも――。
だからこそ、私は受け入れないといけない。
「……何をしたら、信じてもらえますか?」
「はぁ?」
「だから。何をしたら、『貴女を含めて』愛していると、
貴女は信じてくれますか?」
「……アンタ、ホンッット私を怒らせるの上手ねえ?」
『上埜さん』が歪に口角を吊り上げる。
そのこめかみには血管が浮き、怒っているのは明白だ。
怒らせたいわけじゃない。
でも、これしか思い浮かばなかった。
「ま! そーゆー事なら試させてもらうわ。
『何をされても受け入れる』のよね?
まずはその薄っぺらい言葉、撤回してもらおうじゃない?」
「しません。嘘なんかついてませんから」
「うわー、うっれしー! じゃーお言葉に甘えて、
『何でも好き勝手に』させてもらうわ!」
『上埜さん』が大股で距離を詰めてくる。
そして乱暴に服を掴み、力任せに引っ張った。
「あぅっ!!」
ブチブチとボタンが千切れ、胸を晒しながら倒れこむ。
それでも彼女は止まる事無く、今度はズボンをずり下ろす。
「はいこれで全裸。何されるかはわかってるわよね?
嬉し恥ずかし『処女喪失』よ。当然捧げてくれるのよね?」
思わず眉間に皺が寄る。無論、部長に捧げる事に文句はない。
でも、このシチュエーションは流石に傷つく。
「あはは、ほーら嘘ばっかり! アンタ今嫌がったでしょ!
全然受け入れてないじゃない!
前言撤回までタイム数分?
うちのクソ親だって離婚まで数年は我慢したわよ?
アンタ本当に薄っぺらいわね!」
「……誤解しないでください。貴女が欲しいなら捧げます」
「あはは、もう喧嘩腰!
それ、もう『愛情』じゃないわよね?
自分のプライド守りたくって、
意地を張ってるだけでしょう!?」
「でも残念、アンタはもう『嘘つき』なのよ!
ほら、さっさと『スポットから出て』って言いなさいな!」
「そしてアンタの大好きな『竹井久』に謝るといいわ!
『嘘をついてごめんなさい』、ってね!」
「言いませんし謝りません!」
「言いなさいよこの偽善者!!
足掻いてもアンタはもう『嘘つき』なの!
だって、全然平気そうじゃないじゃない!」
ああ、そういう事なのか。この人はきっと誤解している。
『私は部長に何をされても平気、喜んで蹂躙される』
そう宣言したと思ってるんだ。
「上埜さん、貴女は多分誤解してます」
「何を?」
「私は『受け入れる』とは言いました。
でも、『傷つかない』とは言ってません」
「……それで?」
「私だって人間です、酷い事をされれば傷つきます。
多分泣きじゃくるでしょう、平気な顔はできません」
「でも、それでも――」
「貴女が私にする事を、一切否定せず受け入れます」
『上埜さん』の顔から表情が消える。
私の秘部に伸ばしていた指を離し、やがてすくりと立ち上がった。
「……ふーん。思ったよりは本気みたいね。
じゃあ、処女喪失はやめとくわ」
「してもらってもいいですよ?」
「だってアンタ、『竹井久』を愛してるんでしょ?
だったら我慢できても不思議はないものね。
いくら中身が『私』でも、結局身体は同じわけだし」
「その程度じゃ駄目って事ですか」
「もち。てかセックスなんて愛の証明にはならないわ。
離婚したうちのクソ親でもやってんだし。
私はただ、アンタを虐めたかっただけ」
「……なら、もう一回聞きます。
何をしたら信じてもらえますか?」
「そーねぇ、ま、やっぱこれでしょう!」
『上埜さん』はケラケラ嗤うと、やがて台所に足を運ぶ。
シンクの下の扉を開けて、包丁を一本取り出した。
「これは私の持論だけどさ。『永遠の愛』なんて、
本人がみっともなく主張するもんじゃないのよ。
二人で寄り添い死に絶えて、結果、
『二人の愛は永遠になった』って
他人が語るものだと思うわ」
「まーでも、だったら……一つだけ、
自分で証明する方法あるわよね?」
『上埜さん』が私のところに戻って来る。
右手に包丁を携えたまま。包丁がギラリと光る。
彼女の目も妖しく光った。そして彼女は微笑んで――。
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「信じて欲しければ――死になさい?」
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私のお腹に包丁を突き付けた。
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ぶわりと汗が噴き出した。俗に言う『切腹』だ。
腹部を選んだ理由は慈悲じゃない。
より長く苦しんで死なせるためだろう。
理性が警鐘をかき鳴らす。当たり前だ、
これを受け入れたら死んでしまう。いくら何でも無理がある。
死んだら私は終わってしまう、夢も希望も何もかも。
何より死んでも終わらないのだ、悲しみは負の連鎖を生む。
むしろ残された方が辛い、そう、『あの子の時』みたいに――。
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でも。部長が壊れてしまったように、
私もすでに『手遅れ』だった。
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恐怖に歯をカチカチ鳴らす。
なのに、『ちょっといいな』と思ってしまった。
この包丁で自死を遂げれば、私の愛は証明される。
そして部長は泣きじゃくり、私の後を追うだろう。
つまり、部長は『もう苦しまなくてよくなる』のだ。
何よりこれは『悪魔の証明』。拒絶してしまえば最後、
部長は二度と、私に心を開かなくなるだろう。
つまり正解のない二択、どちらを選んでも破滅する。
(だったら……ちょっとくらい『我儘』でもいいよね?)
よし、覚悟は決まった。私はここで人生を終える。
向けられた包丁を手で握った。『ぶじゅり』、
肉に歯が食い込んで、大量の血が滴り始める。
流石に『上埜さん』でも予想外だったのだろう。
包丁を握る手から力が抜ける。私はそのまま刃を奪い、
逆手にそれを握り直した。
「ちょ、ちょっと。アンタ、何するつもりよ」
「何って……上埜さんの言う通り、『自殺』ですけど」
「えっ……」
「上埜さん。多分貴女、まだ私の事を甘く見てますよね?
『どうせ、ちょっと脅せば発言を撤回する』。
そんな風に思ってませんか?」
心外だ、私の愛は軽くない。むしろ誰より重過ぎて、
誰も耐え切れず逃げ出すほどに。
「私も病気なんですよ。当たり前じゃないですか。
壊れた部長と添い遂げるんだもん、
そんな私が普通なわけないよ」
包丁を振り上げる。ひっ、小さな悲鳴が木霊した。
もちろん私の声じゃない、『上埜さん』が出した音。
「最期にもう一回言うね。私は貴女を愛してる。
竹井久も、上埜久も、久ちゃんも、久さんも、
貴女の全部を愛してる。だから――」
強い部長も、弱い部長も。
綺麗な竹井久も、汚れた上埜久も。
全てをそのまま受け入れる。そしてもちろん――
「貴女が死ねと言うのなら、
もちろん私はちゃんと死にます」
最期に私は笑顔を見せる。
涙でドロドロになった『上埜さん』は、
もう『上埜さん』かはわからなかった。
私は手を振り下ろす、『上埜さん』が床を蹴る、
手を伸ばして、もちろん間に合うはずがない、
包丁がお腹に吸い込まれる、そして――。
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周囲に血が飛び散って、私の意識はそこで途絶えた。
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咲が起こした『自殺未遂』は、
なぜか軽症に留まった――だなんて、
素敵な奇跡が起こるはずもなく。
咲のお腹には深々と包丁が突き刺さり、
私は涙ながらに救急車。結果、
彼女は救命救急科へと運ばれる事になった。
(なんで、どうして『受け入れてしまった』の……?)
呪文は何度も教えたはずだ。『スポットから出て』、
ただそう一言呟くだけで、彼女は難を免れたのに。
いいや、本当のところはわかっていた。
咲は気づいていたのだろう。本当は、
『竹井久と上埜久が意識を共有している事』を。
咲と対峙した上埜久は、
直前に交わされた会話を理解していた。これはつまり、
『上埜久は竹井久の記憶を取得できる』事を意味している。
さらに上埜久は『スポットから出て』を催促した、
さらには『竹井久に謝れ』とも。
もし『竹井久が上埜久の記憶を共有できない』なら、
そもそも咲は謝る必要がない。簡単に隠蔽できるからだ。
一連の流れから、咲は私達の秘密に気づいた。
だからこそ、『上埜久を拒絶して、
竹井久に吐いた言葉を反故にする事』を恐れた――。
(違うでしょうよ、いい加減認めなさい。
あの子は単純に『上埜久』も受け入れようとしたのよ)
(キチガイよねぇ、狂ってるわ。
でも、あの子は多分そういう子なのよ。
全ての『久』を愛してくれるの)
(……ねえ、いい加減『分かれる』必要ないんじゃない?
どんな弱音を吐いたところで、
どんな汚点を見せたところで、
あの子なら受け止めてくれるでしょう?)
『誰』の言葉かはわからなかった。
『20歳の竹井久』? それとも『14歳の上埜久』?
いや、多分もう『どちらでもない』。
私達は『統合』したのだ。
咲の捨て身の『治療』のおかげで。
「だからお願い、戻って来て。
もう、貴女を疑ったりしないから」
緊急手術室のランプを睨みつける。
咲は今も戦っていた。私にできる事はもう祈るだけ。
咲が逝ってしまったら、後を追い掛ける事だけだ――。
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事件が起きてから三か月、今も私は病室にいる。
部長に聞いた話だと、私の傷は結構深く、
なかなかの大手術になったそうだ。
後数センチずれていれば『終わり』、
内臓を傷つけて帰らぬ人になっていたらしい。
「生きた心地がしなかったわよ。
貴女がそのまま逝っちゃった時の事を考えて、
途中で刃物まで買っちゃったわ」
ただ、悪い事ばかりでもなかったようだ。
『上埜さん』は私を認めて、『全人格が私を認めた』。
その結果、『咲がいれば解離は不要』と判断され、
部長は『統合』されたらしい。
「微妙に残念ですね」
「え、なんでよ。分裂したままの方がよかったっての?」
「だって久ちゃん可愛かったですし。
それとも部長、久ちゃんみたいに甘えてくれますか?」
「ごめん無理。恥ずかし過ぎて死にたくなる」
「今すぐ解離してください」
「せっかく統合されたのに!?」
部長と二人で笑いあう。
嘘をついたわけではなかった。
本当にあのままでもよかったのだ。
もちろんあの状態が部長にとって苦しいなら、
素直に統合して欲しいけれど。
「ねえ咲、知ってる? 解離性同一性障害の治療ってね、
必要不可欠なものが一つあるの。
例のビリー・ミリガンもそうだったわ」
「……何ですか?」
「何だと思う?」
ビリー・ミリガンの場合を考えてみる。
彼は人生に翻弄された。自業自得とも言えたけど、
理不尽なほどの冷遇を受け苦しんでいる。
そんな彼を救ったのは、彼を助ける周囲の存在だった。
生半可な支援じゃない。例えば彼の弁護士は、
彼に関する支援が多忙を極めた結果、
自身の妻と離婚している。
「……支えてくれる人ですか?」
「そうね。それも……自身を犠牲にしてでも
助けてくれようとする人」
それはもはや『奇跡』だろう。
病気の時点で不良物件、そんなの見捨てるのが普通。
もし、自己犠牲で助けてくれる人がいるとしたら、
もはや正気を疑うべきだ。
「解離性同一性障害が治るケースは少ないわ。
だって周りが見放しちゃうもの」
「そして症状が悪化して……最後には、
『上埜久』みたいなのが自殺しちゃうの」
「なんとなくわかる気がします」
そう考えるとぞっとする。
あの状態が続いていれば、いつか部長は自殺していた。
そして私は残されて、きっと発狂していただろう。
「だからね。私にとって咲は命の恩人で、
それどころかもう『奇跡』なの。
貴女のためなら何でもするわ。
……だからもう、私を置いて逝かないで」
「正直お互い様ですよ。私だって、
『部長に嫌われるくらいなら死んじゃえ』って
考えたわけですし。
部長のためなら何でもします。
死ねと言われたら喜んで死にます。
……だから、私を捨てないでくださいね」
やっぱり私達は『似たもの同士』だった。
部長の病気は治ってない、ただ症状が変わっただけだ。
おそらくそれは『共依存』、私と二人で堕ちただけ。
ただ一つ、確実に言える事がある。
私は狂人だったからこそ部長を救えて、
部長は壊れていたからこそ私を救えた。
二人で『病気』だからこそ、今こうして寄り添えている。
「解離してもいいですよ。どんな部長も愛しますから」
「いくらでも依存して。絶対離してあげないから」
狂気を孕んだ言葉を囁き、私達は口付けた。
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解離性同一性障害、それは死に至る病。
その特効薬はただ一つ――『狂人の愛』。
私は特効薬として、今も部長のそばにいる。
(完)
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今回も素晴らしかったです
かなり異色な要望にもかかわらず、きれいにストーリーが纏まっていてとても面白かったです!
また、「多重人格」という言葉を使わなかった理由を汲んでいただけたようで、ほんとに満足です。
これからも闇深いss楽しみにしてます!
確かに竹井ではないですもんね。
そういうのもいいかもしれないですね。
久さんかわいい
部長が久ちゃんに嫉妬するエピソードとか想像してみました。
五臓六腑に染み渡る>
久「内容的に攻め過ぎかと思ったけど
楽しんでいただけてよかったわ」
咲「個人的にも今回の話は
じんわりしてて好きですね」
「多重人格」という言葉を使わなかった理由>
久「わざわざ『解離性同一性障害』って
明言された時点で意味があるのかと思ったけど
間違ってなかったようでよかったわ」
咲「普通に考えたら『多重人格』の方が
通じますしね……」
登場人物の"その他"って>
上埜
「鋭いわね。そこに気づく人がいるとは
思わなかったわ」
咲「気づかれないと思いながら小ネタ仕込むの
悪い癖だと思いますよ?」
題名を見て七人のナナかと>
久「ごめん、全然知らなかったわ!!」
咲「『24人のビリーミリガン』の方から
取りましたけど、
名前からしたらご提示の作品の方が
ぴったりですね……」
そういうのもいいかもしれない>
久「誰しも心の中にいろんな自分を
飼っていると思うわ。
こういうのもいいんじゃないかしら」
咲「そうですね」
部長が久ちゃんに嫉妬するエピソードとか>
咲「早く執筆作業に入ってください」
久「貴方の作品が読める事を楽しみにしてるわ!」